国語教育と文学 : ことばと心
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概要
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現状の国語教育においては、言語と文学の教育が独立しておこなわれているわけではない。言語教育と文学教育は、その自立性を尊重しながらも、共同でおこなわれるのが理想である。言語教育の一端として文学をとらえ、国語教育と文学の関係について論究する。国語教育の目的は、社会の言語である日本語を個人の言語活動に定着化することである。日本語力活性化をはかるための、日本語力向上に必要な運用技術として、読解技術・思考技術・表現技術がある。国語教育における文学教育は、日本語力活性化の一つである読解技術にはたらきかける要素が強い。だが、ここで文学の内容価値である主題や思想の問題に偏るのではなく、文学の表現技術にはたらきかける要素にも十分な目配りが必要である。教材としての文学は、作家が展開する心の世界と読者の心をつなぎあわせ、ことばによって創造された人間の普遍性を共有することができるのである。また、ことばは、人間が人間として生きるうえで大切な問題を示唆してくれる。ことばが乱れるということは、そのことばを発している人間の心が乱れているということである。ことばの正しさやことばの美しさは、それを操る人間の心の正しさや美しさが問われているということである。ことばは、単なるコミュニケーションの道具として存在するのではない。たとえ音声や文字といった無機質な記号にみえても、その記号に魂が籠るということばの効用もある。国語教育は、ただ単に語法や語彙を教えるのではなく、一人一人が自分のことばと心を見つめなおす機会をあたえるのである。そのための教材として、文学は有効な役割をはたすに違いない。
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