尾瀬ヶ原及びその周辺地域の地衣類
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概要
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尾瀬ヶ原は周囲を囲む燧岳や至仏山と共に日光国立公園の中心をなす景勝地である.高層湿原,火山,蛇紋岩地を含むこの一帯の地衣類に関してはこれまでにほとんど分類学的研究がなされておらず,朝比奈(1952)により葉状,樹枝状地衣類を中心とした75種が報告されているに過ぎない.また,地衣類研究者による本格的な調査が行われた記録もない.本報告では主として2001年10月に著者等が尾瀬ヶ原,燧岳,至仏山を中心とする地域から採集した約1450点の標本を基に38科96属262種類の地衣類を報告した.それらの大部分は日本のブナ帯-高山帯に普通に分布する種類であるが,次に示すような分類学的に或いは植物地理学上,興味深い種が含まれる.すなわち,Brigantiaea sorediata Kashiw., Mas. Inoue & K. H. Moonは新種として記載された.Adelolecia pilati (Hepp) Hertel & Hafellner, Farnoldia jurana (Schaer.) Hertel, Leptogium subtile (Schrad.) Torss., Orphniospora moriopsis (A. Massal.) D. Hawksw.は日本からは最初の報告である.また,Bacidia baculifera (Nyl.) Zahlbr., Fuscidea intercincta (Nyl.) Poelt, Pyrenopsis controbatula Nyl., Rhizocarpon fujiyamae Rasanenは日本では第2の報告である.また,日本産地衣類としては絶滅危惧種に指定されているミヤマウロコゴケDermatocarpon tuzibeiの大群落が小至仏山附近の蛇紋岩上で確認された.以下これらについて述べる.Adelolecia pilati(アカゾメチャクロイボゴケ,新称):欧州や北極圏及び北米大陸に分布する種であるが,アジアではじめての報告である.厚膜で放射状に走る菌糸組織から成るよく発達した果殻(excipulum)が水酸化カリウム(K)で紫色あるいは紫赤色の反応を示す.Bacidia baculifera(ムチイボゴケ,新称):本種はNylander(1890)が富士一合目で採集された標本を基に新種として記載して以来報告はなかった.本調査地域ではブナやオオシラビソの樹幹上及びそれに着生するコケ類上に比較的普通に生育している.褐色で凸状の子器盤,無色で放射状に走る菌糸組織から成る果殻,26-32×5-7μmの糸状の胞子を有する.Brigantiaea sorediata(コナサビイボゴケ,新称):本種は地衣体に顆粒状の粉芽を持つ点でサビイボゴケ属の他種からは容易に区別できる.子嚢には長さ90-120μmの子嚢胞子を1個生じ,地衣成分としてウスニン酸とゼオリンを含んでいる.燧岳北側の海抜1650m付近のアスナロには普通に見られるがその他の地域では発見されなかった.Dermatocarpon tuzibei(ミヤマウロコゴケ):本種は日本特産種で,岩手県の早池峰山,群馬県の谷川岳及び至仏山だけに産する稀種であり,絶滅危惧種にも指定されている.至仏山から小至仏山にいたる蛇紋岩の岩上には本種の広大な群落が成育している(図3).Farnoldia jurana(スルスミヘリトリゴケ,新称):本種は従来欧州や北米大陸の高緯度地域を中心に広く知られていたがアジア地域からははじめての報告である.本種は石灰岩質の岩石を好むが,本調査地でも小至仏山や至仏山山稜部の蛇紋岩上に生育している.明瞭な子器縁に縁取られた黒色の子器は著しく炭質化した果殻を持ち,地衣成分としてコンフルエンチン酸を有する.Fuscidea intercincta(アバタフスキデア,新称):本種はこれまでInoue and Moon(1998)によって白神山地から報告されているだけである.圧着した黒色の子器,子器盤上の突起umbo,楕円形の胞子を持ち,ジバリカート酸を有する.Leptogium subtile(タカネキノリ,新称):欧州及び北米大陸の高緯度地域を中心にひろく分布するが,日本からははじめての報告である.地衣体は地上生で巾0.1-0.3mm,長さ2-3mmと小さく,多くは密集したクッション状となる.アオキノリ属の中では最も小形の地衣体を作る.日本産の標本は無子器でありさらに検討が必要ではあるが,地衣体の形状や成育状況から見て本種と同定できる.Orphniospora moriopsis(チャイロヘリトリゴケ,新称):本種はこれまでに欧州及び北米の高緯度地域,豪州,ニューギニアとキナバルから報告されているが日本からははじめての報告である.地衣体は褐色で光沢があり小分画化し,ヨードで赤紫の反応を呈する髄層と褐色単室の胞子を有する.Pyrenopsis conturbatula(モツレノリ,Fig. 4):本種はNylander (1890)が九州,高島産の標本を基に記載したものであるがその後の報告はない.本調査中に燧岳北斜面の1800m付近の日当たりの良い岩上に成育するのがみつかった.共生藻はGloeocapsaで地衣体は赤みがかった茶褐色,小形の鱗片状にわかれ,裏面全体で岩に密着する.子器は被子器状で孔口は地衣体表面にひらく,果殻は明瞭で無色,子嚢は8個の胞子を持ち,胞子は無色,単室,10-11×4-5μm. Rhizocarpon fujiyamae(フジヤマチズゴケ,新称):本種はRasanen(1944)によって富士山から新種として報告されたものであるが,その後の報告はない.チズゴケと同じ黄色の地衣体を有する仲間であるが,これとは地衣体の小分画がいくぶん膨れ,子嚢上層が水酸化カリウムで紫色を呈し,分室数の少ない石垣状多室の胞子を有する点で区別できる.
- 国立科学博物館の論文
- 2002-12-25
著者
-
井上 正鉄
秋田大学教育文化学部
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井上 正鉄
秋田大学教育文化学部自然環境講座生物
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柏谷 博之
国立科学博物館植物研究部
-
文 光喜
淑明女子大学自然科学研究所
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柏谷 博之
Department of Botany, National Science Museum, Tokyo
-
柏谷 博之
西太平洋における島弧の自然史科学的総合研究実行委員会
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柏谷 博之
国立科学博物館
-
井上 正鉄
秋田大学教育学部
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