紙の上の宮廷 : 中世・ルネサンス期イタリアにおけるノヴェッラ集の枠組の変遷
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概要
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中世およびルネサンス期イタリアのノヴェッラ集には、その代表作である『デカメロン』をはじめとして、特殊な枠組がノヴェッラ群を抱括している作品が多い。本論は枠組の変遷を簡単にトレースして、その動因を考察すると共に、イタリア文学の特性の一端に触れようとする試みである。 なお私は便宜上枠組ということばを使ったが、本論で扱うのは、イタリア語でcorniceと呼ばれている部分だけではなく、序文や献辞等さらにその外側にある部分をも含めて、ノヴェッラ群をまとめている外的な部分である。本論においては便宜上corniceの部分を「額縁」、序文等の部分を「外枠」と呼んで区別し、両者をあわせて「枠組」と呼ぶ。すべて、一応はテキストの中に客観的に存在している筈の部分で、筆者が自分の解釈を通して観念的に構築した構造体ではない。 永年定説とされ疑いの余地の無い事実とされてたことが、実は大した事実の裏付けを持たなかったと判明する例が余りにも多いのであるが、少くとも1980年代中ばごろまでのイタリア散文史の常識では、イタリアのノヴェッラが『七賢人の書』あたりから始まり、その最初のオリジナルな成果が、作者不明の『イル・ノヴェッリーノ』であるとされていると考えても差し支えなさそうである。ということは、これまでしばしば強調されて来た、イタリア人の文学の10〜12世紀の不振と、13世紀後半における驚異的な発展というギャップの謎や、E.R.Curtiusが述べたヨーロッパ文学における首位権の移動の概略は、ほぼそのまま通用するものと考えうるであろう。 勿論こうした急激な変化の背景には、イタリア中世市民の富の集積とそれに基づく文化の興隆を見るべきだが、12世紀までの沈滞を考えると、すべてを富の集積から説明するのは安易すぎるという感が否定できない。少くとも港湾都市ではもっと古くから富の集積が見られた筈だし、ロンバルディーア諸都市の発達も無視しえない筈である。むしろ12世紀までの沈滞を考えると、中世イタリアのコムーネには逆に文学活動等を抑制するような力が働いていたと見なす立場が可能なように思われる。少くとも記述された文学作品の創造という点に関しては、約2世紀に及ぶ沈滞から、そう見なさざるを得ないのではないだろうか。 少くともAntonelliやBianchiniの統計から見る限り、トスカーナで文学活動を行う人々が大挙して現れたのは13世紀の60〜80年代のこととされていて、「徐々に」とか「長期にわたる」とかいった変化ではなくて、爆発的な変化だったと見なさざるを得ない。こうした変化を説明するのには、一見合理的な段階的発展の理論ではなくて、何らかの抑制や制約が取り払われた状況を仮定する一種の破局の理論の方が妥当だと思われる。 こうした状況の中から生まれた作品の一つが、中世ヨーロッパに広く伝播していた、『パンチャタントラ』からの翻訳であり、またもう一つの重要な作品が、冒頭に「優雅で高貴な心臓」を持つ不特定多数の読者への序文を持ち100という意味深い数のノヴェッラを含む一種のアンソロジーだったということは、決して偶然ではない。すなわち翻訳は、従来不当に遮断されていた言語世界への輸入であり、アンソロジーは、すでにその世界に十分な蓄積があったことを証明しているからである。しかしいずれも一種の破局の中から生まれた過渡的な作品であることは否定できないであろう。 なおCurtiusが示したような首位権の移動について考える場合には、常にメディアの変化についても一応考慮することが必要だと思われる。1300年頃におけるフランスからイタリアへの文学的首位権の移動に関しても、イタリアにおける中国渡来の製紙技術の改良と、ファブリアーノを中心とする製紙産業の発達は、無視しえない影響を及ぼしているといえるのではなかろうか。紙を用いることによって生じた書物の増加は、口承文学から記述文学への移行を促進させた筈である。それと共にトゥルバドゥールやジョングラールあるいはミンストレルといった人々が歌ったり物語ったりして、集団的に耳から享受されていた文学が、集団の中で朗読されたり、個別に読まれたりする文学へと転換していったに違いない。たしかに印刷術発明以前には制約も大きかったけれども、専門の暗誦者なしでも享受できるという点で、書物の増加は文学の発展に確実に変化を与えていた筈である。なおDante, Petrarca, Boccaccio等、ヨーロッパにおいてイタリア文学が圧倒的に高い地位を占めていた時代は、このように印刷術発明以前で、文学作品が朗読者を通して、原則として集団的に享受されていた時代とほぼ重なっているといえるだろう。
- 1990-10-20
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