系図学的資料より見たフィレンツェ共和国の二大役職と「家」
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概要
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ブオナッコルソ・ピッティの『年代記』は、その赤裸々な体験談によって、しばしばベンベヌート・チェッリーニの『自伝』に勝るとも劣らぬ興味をそそる作品であるが、先ずその冒頭のエピソードからして衝撃的である、すなわち彼は、一族の起源をたどるための資料が残っていない理由を次のように説明する。「さて、私がわが一族の古い起源を見つけ出しもせず、書こうともしない理由は次の通りである。そもそもわが家の古い記録類は、先祖代々伝えられて、チオーレ・ディ・ラーポ……(以下略)なる者の手に入った。ところがこのチオーレという男は、嫉妬心のかたまりで、他人の悪口を言うというひどく悪い癖があったために、その悪癖が災いしてわが市政の仲間入りを許されないという事態に遇わねばならなかった。ところが、先に述べたネーリの息子たち(注 チオーレの又従兄弟にあたる)である私共が皆、この上なく名誉あるあらゆる地位に受け入れられているものを見ると、彼は大いに嫉妬に駆られ、彼の地位を奪ったのは私共であるとし、私共の圧力で自分がのけ者にされているのだというとんでもない誤解を抱いてしまった。やがてあげくの果ては、臨終に際しても一切の持物を今ポルティコの尼僧院に入っている娘に譲ってしまった。私共は彼の死後、当時まだ家にいたその娘を訪ね、チオーレが所持していた書物、証文、書類を引渡してほしいと頼んだ。すると彼女は、そういったもののことは何も聞いていないが、生前チオーレが沢山の書物を売り払い、また死ぬ間際に大量の証文や書類を焼却するのを見たと答えた。私共は彼女が真実を語っていることをまことにはっきりと理解した。何故なら家中さがして見ても、新旧を問わず、本や書類は何一つ見つからなかったからである。」これほど極端な例ではなくとも、当時のフィレンツェ市民がどんなに市政に加わることを望んでいたかを示す証拠は、探せばいくらでも見当るだろう。たとえばジョヴァンニ・モレッリは、自分の結婚を次のように記す。「一三九五年十二月十五日、私ジョヴァンニ・ディ・パーゴロ・モレッリは、メッセル・ロット・カステッラーニとアーニョロ・リコーヴェリの仲介で、アルベルト・ディ・ルイージ・デッリ・アルベルティの娘カテリーナと婚姻を結び、持参金千フィオリーニを得た。(中略)その後、同年(注 フィレンツェ暦)一月二十七日、サンガッジョ・オルトロルモから、彼女をわが家に迎えた。だが私は、かつては式を挙げる所まで進んでいた別の家との縁組がもし実現していたら、市の政府で私が首尾よく獲得していただろうと思われる非常に名誉ある地位が、この縁組のおかげで得られなくなってしまったのだと考えている。」最初婚約した相手の家が記されておらず、たしかな事情は分らないが、どうやら作者は最初の婚約者から一方的に婚約を取り消され、その後結婚した相手が丁度このころ市当局から弾圧されていたアルベルティ家の娘であったため、彼自身も社会的に不遇であることを嘆いているもののようである。ジョヴァンニの胸中では、「彼女がまだ幼いころから妻にしたいと望んでいた」という相手から、折角サンタ・クローチェ教会での誓約まで行っておきながら一方的に婚約を破棄されたことへの怨みと、多分その後のアルベルティ家との縁組が原因だと思われる市政に加われないことへの不満とが渾然一体となっていて、現在の社会的不遇を感じるごとに、彼自身はその遠因だと信じて疑わない婚約破棄事件を思い出すという仕組になっているものらしい。チオーレ・ピッティにおいても、ジョヴァンニ・モレッリにおいても、市政に参加したいという気持は、もはや理性的判断の域をこえて、全人格そのものの根源にまでつながっているほどの底の深いものだといえるだろう。だからこそ失った息子を嘆き悲しんでいた時に後者の耳許に聞えて来た「汝にはお金もなく、親戚もなく、市の名誉職もない。汝にはそれらを手に入れる方策も分らず、またそれらによって汝を慰めたり、それらのために援助してくれる人もいない」という、当時の彼としては当然な現状認識を、悪魔の声として聞いたのだろう。フィレンツェ市民のこうした心理状態について、ジーノ・カッポーニは公職追放を伴った「戒告処分」が市民に与えた恐怖について述べた箇所で触れている。「だが公的生活は、この市民の心中に極めて奥深く食いこんでいたために、政治に加わらずにいることは存在せぬに等しいかのように思われたのだ。」彼はさらに言葉を続けて、実生活の上でも政治に加わっていないと如何に不利であったかをも説明しているが、やはりチオーレやジョヴァンニの失意の有様を見る時、我々はジーノ・カッポーニが市民の心理を説明するために前述の文の脚注に示した「この国で社会的地位を持たない者は、我々の仲間なら犬も吠えてはくれない」という『マンドラーゴラ』中の一文に表わ
- 1980-09-15
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