凡庸の都市から稀有の都市へ : フィレンツェ文化の基本的変革期に関するノート
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概要
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『デカメロン』や『三百話』には劣るものの、十四紀のノヴェッラ集の一つとして忘れてはならない作品に、セル・ジョヴァンニ・フィオレンティーノ作『イル・ペコローネ』がある。一読すれば分るように、この作品は実に奇妙な内容構成で成立しており、まずフォルリの美しい尼僧院長と告解師の修道士とが密会して交互に物語を述べるという枠を設定して二五夜(五十話)を重ねるわけだが、最初の十話余りはほぼ純然たるノヴェッラ集の趣きで進行していながら、やがて同時代の記録的なエピソードが現われ、さらにジョヴァンニ・ヴィッラーニの『年代記』を下敷きにしたと見られる歴史的エピソードの叙述に転じ、時たま本来のノヴェッラに戻ることはあっても、ほとんどフィレンツェに関連のある歴史叙述にのめりこんでしまっている。その結果Enzo Espositoの解説によると、全五十篇中実に三二篇までがヴィッラーニに基づく主にフィレンツェ史関連の叙述で成り立ち、ノヴェッラ集としては完全に破綻を来しているといっても過言ではあるまい。ところが、さらに詳細にこの作品に拾い上げられているフィレンツェ史関係のエピソードを検討すると、もう一つ奇妙な現象にぶつかる。それは、作品が書かれ始めたと自ら述べている時期が一三七八年で、さらにフィレンツェ意外に関しては一三八〇年代のエピソードを採り上げているにもかかわらず、フィレンツェ史に関連した歴史的な叙述は、ハインリッヒ帝がフィレンツェを包囲しつつも陥落させることができずに一三一三年に没したという記事(XVIII-1)が最も後期のものであり、その後執筆時期までの間に、実に六十年余りの空白が認められるという事実である。周知のごとく、ジョヴァンニ・ヴィッラーニが一三四八年に死んだ後も、その弟と甥によって、『年代記』そのものは一三六十年代半ばまで書き続けられており、セル・ジョヴァンニは、数年を費したと推定されている執筆期間中に、その草稿を参照することは可能であったはずだ。もっとも、ジョヴァンニ・ヴィッラーニの執筆中、すでに早い時期からその写本の一部は流布していて、ダンテでさえ利用した可能性があるとされているほどだから、そのころまでの部分のみを利用したと仮定すると、かなり年代的には妥当な説明になりうる。しかしその説明を完全に不可能ならしめる証拠が僅かながら存在している。それは、『イル・ペコローネ』中の法王ヨハネス二二世の異端を扱った作品(XX-2)の冒頭部で、ヴィッラーニの『年代記』第十巻二二六章の冒頭の文章がそっくりそのまま筆写されているという事実で、数行にわたって同一の文章が表われている以上、偶然の一致ではありえず、従ってセル・ジョヴァンニは、少くとも『年代記』中の一三三三年の部分を参照しえたことは確実である。しかも第二二日の第二話のこのエピソードは、『イル・ペコローネ』に一貫して流れている法王庁批判の精神に基づいて、意識的に選択されていると考えるべき性格のものなので、セル・ジョヴァンニが、偶然『年代記』のこの部分のみを披見したものとは考え難く、むしろ彼は少くともこのあたりまでは『年代記』を十分利用したにもかかわらず、あえてこうした選択を行ったと考える方が妥当ではないだろうか。すなわちフィレンツェ史関連のエピソードとしては、その興味深さの点でひけを取らない対カストラカーニ戦争、一三三三年の大洪水、あるいは四二〜三年に生じたアテネ公の独裁をめぐる騒ぎなどがすべて割愛され、十四世紀初頭(厳密にくわしく叙述されているエピソードに限ると一三〇八年のコルソ・ドナーティの死あたりが最も遅い)で打ち切られているのは、明らかに作者の構成意識に基づいているといえるのではないだろうか。 こうした推測に従って、この作品中のフィレンツェ史関連の記述のみを検討してみると、ごく単純な構造で成り立っていることが分かる。つまりまず第八日第一話でグェルフィ党対ギベッリーニ党の紛争の起源を語り、続く第二話でモンタペルティ戦争の大敗の経緯を述べた後、一挙にローマ時代にさかのぼり、フィエゾレの破壊とフィレンツェの建設を物語り(X-2, XI-1)、以後時代順に下降して、白黒闘争(XII-1)に達した後、ボニファキウス八世や法王庁のフランス移転に関する裏話などに触れるが、再び一挙にバベルの塔の時代に立戻り(XV-1)、またフィエゾレ建設(XV-2)より、かなり市外のエピソードも含めつつ、多少前後することはあってもほぼ時代順に下降しながら、モンタペルティ戦争を報復したコッレの戦い(XXI-1)の記述に至り、以後は十三世紀より十四世紀初頭において、市の内外で生じた事件を物語る。つまりプロローグ的な二話の後で、二度にわたって古代より十三〜四世紀まで下降した後、約十話にわたって十三〜四世紀を蛇行するという構造から成り立っている。さらに注目すべきは、第二十五日第一話におけるナポリの
- 1986-03-15
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