エステ家の起源を求めて : ライプニッツとムラトーリの共同研究の経過
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概要
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序幕 婚礼へのお祝い ライプニッツ(以下L.と略)という哲学者は、ラムトーリ(以下M.と略)の生涯に大きく関わっている。L.がM.に対して及ぼした精神的影響については、後に見るとおりであるが、それ以前にM.の生涯そのものを条件付けるような役割をも果していたのである。後に扱う主題とも深く関わり合っているので、まずその事情から眺めることにしよう。まず第一に1695年にエステ家の当主リナルド一世が、ドイツのブルンズヴィック(ブラウンシュヴァイク)公爵令嬢カルロッタ・フェリチタと結婚したという事実がある。その婚礼へのお祝いとして当時49歳ですでに高名な哲学者だったL.が、一通のフランス語の手紙を花嫁の故郷であるハンノーファで発表した。その手紙は次のような文章で始まっている。「モデナ公爵閣下と故ブルンズヴィック公爵ジャンフレデリックの姫君との間で結ばれたご婚礼が、両公爵家の歴史のいくつかの点を明らかにする機会を私に与えて下さいました。これまで様々な著者たちが、ブルンズヴィック、エステ両家の起源は共通で、同一の先祖から直系の男子を通じて血統が受け継がれているとしておりました。実は近年、優秀な人々が、この説に疑問を表明しておりましたが、それはこの説を唱えた歴史家たちが、ほとんど根拠もなしに、真偽をごたまぜにして語っていたからです。しかし私はその決定的な証拠を発見しました(J'en ai trouve preuves convaiquantes)。そして両家の関係を証明したものと確信しております。」古い家にはいろいろな伝説がまつわりついているものだが、さすがにエステ家ともなるとスケールが違い、ドイツの皇帝にも優に匹敵しうる豪族と祖先を共有しているのだという言い伝えが残っていたのである。ところがL.はその言い伝えが真実で、しかもその時リナルド公が結婚した相手の家こそ、かつて先祖を共有した一族に他ならないという証拠を発見したと公表したのだから、両家に関心ある人々には強い印象を与えたに違いない。その後その手紙は、10世紀の末頃に生れたAlbert Azon(Alberto Azzo)というエステ家の先祖が、まずGuelph家出身のCunigondeと結婚して長子Guelph(Guelfo)を得たこと、ところがCunigondeの実家の当主Guelph三世が若くして死んだため、エステ家のGuelphがおじの家を継いでGuelph四世となり、その子孫らは大いに領地を拡げて、地中海からバルチック海に及ぶ広大な領地を持つ大領主となり、グェルフィとギベッリーニの党争の一方に名を留める程になるが、歴代皇帝に警戒されて領地を失い、結局ブルンズヴィック公爵のみが残って、その高貴な血を伝えていることを報告する。他方イタリアの系統はといえば、AzonはCunigondeと死別した後、フランスのメーヌ伯の娘と結婚してHugues(Ugo)とFolques(Folco)の兄弟を得ており、その内H.はやはり男子継承者を失った母方のフランスの領地を継ごうとして失敗する。本来のエステ家の領地はF.に伝えられるが、フランスから帰国したH.にも一部は分けられる。しかしやがてH.系統が絶えたため、結局F.の系統がイタリアの本来のエステ家領を継承して、それがエステ家の直系の先祖である。すでに16世紀エステ家ではドイツとの関連を調べるため、Faletiをドイツに派遣したが、確証はつかめず、その誤った報告に基づいて、エステ家の高官Piguaが歴史を記し系図を作製した。以上がL.の手紙の要旨で、P.の誤った系図と、それを訂正したL.自身の系図とがその末尾に揚げられている。この手紙は、むしろ内容的には一種の研究報告で、そこで述べられた事柄は、ムラトーリのLe Antichita Estensiにもそのまま受け入れられ、今日でもほぼその通り認められているといえる。ただしL.はその報告に当って、典拠を全く示しておらず、まるで手品師のように、自信満々に自分の発見した事実を披露している。しかもその文章も、たとえば「フェルラーラ、モデナ、レッジョの公爵たちは、そのドイツの御親戚がどうなっておられるのか、ご本人もご存知ではなかったのです。そしてたしかフリブールとかいう伯爵がいて、何だか知りませんが、ドイツで何やら大きな領地を手に入れているはずだとか想像しておられたわけです。(& se figuroient certains Contes inconnus de Fribourg, gui devoient avoir acquis, je ne sais quel gran pais en Allemagne)」といった調子のかなり気楽な気分のもので、やはり婚礼への祝辞という性格がはっきりと感じられる。勿論こうした発見が、いかにL.の天才をもってしても即座になされたわけではなく、実際には1789年3月にヴェネツィアについて以来、約1年間イタリア各地を調査、モデナには6週間も滞在して文献を調べあげた末での成果だったのである。パリやロンドンを舞台にした学究生活から、ブルンズヴィック家の顧問官、修史官、図書館長として、この由緒ある家の歴史の著述を引受けたL.にとって、こ
- 1988-10-30
著者
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