ダンテの作品における「家」の意味(1) : 「どこの家にも骸骨がある」 サッカレーの言葉
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概要
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「イタリア人の修道士サリンベーネが、十三世紀にフランスを訪れた時、彼が注目した主な事柄は、夏の夜が短いことに加えて、貴族が田舎に住んでいるという事実であった。」これは、J・K・ハイドの『中世イタリアの社会と政治』中の一文であるが、私には当時のフランスとイタリアとの違いを見事に浮彫りしていることばのように思われる。すなわち、サリンベーネがフランスでこうした事実に目を見はったということ自体、彼の故郷イタリアでは、「サリンベーネの時代までに、少くとも一年の一部分をすごすための町の住居を持たない貴族はほとんどいなかった」ことを意味しているからである。農奴出身の商人たちを主体として、封建的領地の中で孤立した存在を強いられた北ヨーロッパの諸都市と異なり、封建的出自を誇る貴族たちが商人と雑居し、時には自らも商業活動に従事していた、イタリアにおける中世都市の特性に関しては、近年わが国でもイタリア史の専門家たちの手で次々とすぐれた研究や紹介が行われており、そのおかげで、我々の文学史的研究のためにも貴重な示唆が与えられつつあるように思われる。これらの成果は、ダンテおよびその同時代人の文学を考える上で当然貴重であるが、それは単にダンテたちが生れかつ生きた環境についてより正確な知識を与えてくれるためだけではなく、ヨーロッパの他の諸国、特にフランスとの差異を明らかにしてくれるためでもある。ところで、なぜ私が殊更こんなことを強調するかというと、ダンテの時代あたりが、ヨーロッパ文学史の上で一つの曲り角をなしていると私は考えるからである。たとえば、E・R・クルティウスは、その大著『ヨーロッパ文学とラテン中世』の中で、「一一〇〇年から一二七五年-『ロランの歌』から『バラ物語』まで-フランスの文学と知的教養は、他の諸国民に対して模範とされた」と記した後、「一三〇〇年以後すでに文学の首位権はイタリアに移っていた」と述べている。勿論こうした評価に関しては異論の余地もあるだろうが、ダンテ以後のイタリア文学の充実ぶりは、何人も否定しえない事実であろう。クルティウスの言うように、それ以後二世紀内外にわたって首位権なるものを保持したか否かはとも角、それ以後の堂々たる独自の地位は、それ以前のイタリアにおける俗語文学の遅れや、意欲の乏しさと考え合わせる時、一種の驚異を感じさせずにはおかないであろう。一二二〇年代までは俗語の文学が、ほとんど空白であったこと、それ以後でもマルコ・ポーロの口述による『東方見聞録』をはじめ若干の著作が、イタリア人によってフランス語で記されていること、また十三世紀の文学的業績の中で、フランス文学やラテン文学からの翻訳や紹介が少なからぬ部分を占めていること等から考えて、十三世紀半ばごろまでのイタリアは、明らかに文学における未開の後進地であったと見なすことが可能である。だから、十三世紀の後半から十四世紀の初頭にかけての時期-ほぼダンテの生涯にわたる期間-こそ、まさにこの未開の地で、初めて本格的な文学活動が行なわれるようになった時代だと考えても差支えないものと思われる。ところが、先にサリンベーネも観察したように、それ以前の文学活動の中心であったアルプスの彼方と、新しく文学が根付いたイタリアとでは、かなり異った環境が存在していたのであった。つまり言葉を変えると、ほぼダンテが生きていた時代に、ヨーロッパ文学は、フランスを中心とする、概して田園的な環境から-この場合、たとえばギョーム・ド・ロリスが『バラ物語』で描いた果樹園や小川のせせらぎを想像していただきたい-すでに大いに都市が発達していたイタリアに移植され、イタリア中世都市という、同じ都市の名で呼ばれていても、北ヨーロッパの都市とは著るしく性格を異にした環境に、初めてしっかりと根付いたと考えることができるのではあるまいか。その際、詩人たちは当然大いにとまどいを感じ、たとえば旅先や旅の途中で恋人を歌うなどという形で、北方と似た条件を設定して詩作を試みた例もみとめられる。しかし、実はこのイタリアの中世都市という環境が、それ以前の封建制下の田園と城砦などという環境に比して、さらに肥沃な文学の土壌であるという事実を悟るのに、才能に恵まれた詩人たちは大して時間を要しなかった。そしてダンテこそ、この新しい文学の環境に潜んでいた可能性を、最も豊かに開拓した詩人の一人だったといえるのではあるまいか。因みにダンテは、地獄を「火の都市(la citta delfuoco)」、「赤熱の都市(la citta roggia)」、「ディーテの都(la citta di Dite)」などと呼び、地獄の門の銘文の一行目にも、「我を過ぎて、憂いの市中(nella citta dolente)に至る」と記したのであった。この都市という環境、特にイタリア中世都市という環境の持つ文学的素材としての豊饒さの内にこそ、イタリア文学の飛躍?</abst>
- 1976-10-01
著者
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