発見されたヘッベルの詩 : "Zum 18.October 1835"について
スポンサーリンク
概要
- 論文の詳細を見る
ヘッベル(1813-1863)は1835年10月19日に日記に次のように書いている。「ハンブルクの検閲当局は目下,謎々や文字謎の答も提出されなければならないと命令している。このことは多くの謎を解くと思う。」(T.106)「検閲官ホフマンは私の詩"Zum 18 Oct:1835"が提出された時,怒って印刷屋に突き返し,(あのご婦人(ショッペ女史)はどうして私がこんな詩を通すと思うのだ。)と言った。」(T.107)ヘッベルは1835年2月に北ドイツの故郷ヴェッセルブーレンを去り,ハンブルクで大学人学資格を得るための勉強をしていた。ハンブルクのジャーナリストで作家のショッペ女史(1791-1858)の尽力によるものであった。ハンブルクのよく知られた検閲官ホフマンによって不許可にされたヘッベルの詩"Zum 18 Oct:1835"は,ヴェルナ一によれば「残されていない」はずであり,特に問題とされたこともない。しかしヘッベルはすでに故郷の教区長の家での書記時代にいくつもの自由を求め,時代の反動的な動きに反対する「政治詩」(Br.Ⅰ,S.20)を発表していたのであるから,恐らくは政治的な内容のものと想像される"Zum 18 Oct:1835"は関心をひくものがある。ヘッベルと同年に生まれたビュヒナーが逮捕を避けてフランスに逃れたのが1835年3月のことであり,12月には若いドイツが活動を連邦議会の決議によって禁止される。このように緊迫した時代状勢がヘッベルにいかなる影響を与えたかということを知る上で,この詩は重要な資料となるはずである。ところが近年,この詩とおぼしいものがヴェッセルブーレンのヘッベル記念館のヴェルハウゼンによって偶然発見され,その後元ヘッベル協会会長シュトルテによって簡潔に「これまで行方不明のヘッベルの詩」と認められるに至ったのである。そこで以下においてはこの詩をヘッベルの作とすることの妥当性も含めて検討しつつ,時代とヘッベルのかかわりを探り,ヘッベル像の転換を試みることとする。
- 山形大学の論文
著者
関連論文
- 太宰治「走れメロス」、もうひとつの可能性
- 太宰治とグリムのメルヘン : 作品集『ろまん燈籠』(昭和22年7月10日出版,用力社)におけるメルヘン・昔話の論理
- 芸術家小説の系譜 : トーマス・マンと太宰治
- ヘッベルのポーランド詩 "Die Polen sollen leben"について
- ヘッベルのギリシア詩"An Gehlsen"について : 若いヘッベルの政治意識
- 発見されたヘッベルの詩 : "Zum 18.October 1835"について
- ハンバッハ祭について : 「ああ,シルダ,我が祖国よ。」(ハイネ)
- ヘッベルの政治詩について : 1832年成立のものを中心として
- 明治14年明治天皇庄内巡幸
- 山形大学図書館に存する青島鹵獲書籍について : その比較文化的考察
- 太宰治「ろまん燈籠」論 : アンデルゼン、グリム、ホームズ、「剽窃」の論理
- ヘッベルのテレグラーフ論文 : 同時代の文学とのかかわりにおいて
- ヘッベルの演劇論解釈の試み : へッベルとハイベアの論争を中心として