Sprezzaturaをめぐって : 「宮廷人の書」を支える中心概念
スポンサーリンク
概要
- 論文の詳細を見る
十六世紀の初頭というのは、Aldo Manuzioの活躍に代表されるように、古典古代の作品の出版が爆発的に増加すると同時に、Trattatid'AmoreやTrattatidiComportamento等の俗語による論文がその黄金期を迎えた時代でもあった。十五世紀においては一部の先端的知識人や哲学者のみのものであったウマネージモの文化が、ようやく広範な読者層に浸透してゆき、特に各都市の宮廷がその担い手となったのである。政治家、外交官、詩人・文学者といった区分は未だ明確化しておらず、これらをすべて兼ねあわせた存在としての宮廷人の役割が重要視されたのは当然と言えた。カスティリオーネの「宮廷人の書」が一五二八年四月にヴェネツィアのアルドゥス書店から出仮されるやいなや大好評を博したのみならず、正式な出版以前既に何らかの形で海賊版とも言うべき版が出まわっていたほどの成功を収めたのもこのためであろう。そして「宮廷人の書」の各国語への翻訳や、その亜流が数多く現われてくる。しかし、この現象は「宮廷人の薯」を宮廷生活に要求されるマナーの教科書として読もうとした読者が数多く居たことを物語るものではないだろうか。現在でも「宮廷人の書」をこのような角度から把えようとする傾向はかなり強い。エウジェニオ・ガレン教授も、自由を希求したウマネージモの本当の姿が見失われ、形式的な模倣に堕した文化的地平の中にこの作品を位置づけたうえで次のように指摘する。「宮廷人たらのマナーの手引き、すなわち、宮廷に生き、活動し、そこで行動するために、いくつかの資質をもち、ある一定の仕方で振舞うことを義務づけられた人々の"技術的な"教育書である。」そして、ウマネージモによって完成された文化の理想像の中から、優雅な美や、表面上の高貴さ上いったものだけが生き残り、この傾向の最も強く押し進められた所に「ガラテーオ」が現われる、と。確かにマッテオ・パルミエーリや、レオン・バティスタ・アルベルティたちとカスティリオーネを比較すれば、文化史の流れの中で「宮廷人の書」がそのような位置づけを与えられるのは香定し難いかも知れない。が、それでは実際問題として、「宮廷人の書」がマナーの教科書としていったいどの程度役だったのか、となると答えはかなり悲観的になるざるを得まい。その点、三〇年後にやはりヴェネツィアで出版されたジョヴァンニ・デッラ・カーザの「ガラテーオ」を読むと、これは文字どおり宮廷における身の処し方を学ばうと「宮廷人の書」をひも解いたものの期待はづれに終わり、何かよい手引きは無いものかと物色していた読者のために書かれたかのような印象を受けるのである。
- 1983-03-10
著者
関連論文
- Cortegianoにおける言語論争の背景
- アリオストの1532年1月15日付マントヴァ公宛書簡
- アリオストの火器批判
- ベンボとアルドゥス版『カンツォニエーレ』
- オルランド・フリオーソ第三七歌をめぐって
- Sprezzaturaをめぐって : 「宮廷人の書」を支える中心概念
- ベンボとアルドゥス版『カンツォニエーレ』
- C版『フリオーソ』出版直前の改変
- 『オルランド・フリオーソ』第33歌、フランス軍敗退史をめぐって