オルランド・フリオーソ第三七歌をめぐって
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概要
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ルドヴィーコ・アリオストのオルランド・フリオーソに計三種の版が存在することはよく知られている。これらは、通常、早いものから順にA版、B版、C版と呼ばれ、出版の年はそれぞれ一五一六年、二一年、三二年である。一五〇四〜六年頃に着手したとされるA版は好評ゆえに一五二〇年には既に入手困難となっていたようであるが、アリオストはこのA版が世に出た直後からその改訂にとりかかっており、彼の死後、息子ヴィルジーニオの手によって出版されるCinque Cantiの八行詩群がその試みの一環を成すものであったとも言われる。しかし、一五二一年のB版は、基本的にA版と大きな差異のないものとなつている。B版出版後、アリオストはフェラーラ公の代官としてアペニン山中のカステルヌオーヴォ・ディ・ガルファニャーナに赴任することを余儀なくされ、一五二二〜二五年の三年間を治安の乱れた辺境の統治に費し、詩作は実質的に中断せざるを得なくなる。その間にもB版の売れゆきは極めて好調で、一五二四〜三一年の間にミラノ、ヴェネツィア、フィレンツェの各都市で海賊版も含めて十七版にものぼる出版が確認されている。一方、一五二五年五月にようやくフェラーラに帰ったアリオストはB版に対して本格的な改訂作業を続け、今度はテキストにかなり大きな変更がもたらされる。すなわち最終版となったC版においては、全体の規模がそれまでの四十歌から四六歌に拡大され、文体の面でも当時さかんに議論された言語問題Questione della Linguaの余波を受けて全面的な見なおしが行なわれているのである。有名な冒頭の第一行、Le donne, i cavallier, l'arme, gliamoriからしてこのような形を採るのは実にこのC版においてであり、B版からC版への改訂はオルランド・フリオーソの創造過程のうちでも最も重要な局面のひとつだったのである。そして、従来はこのC版こそがフリオーソの最も「進化」した形であるとされ、アリオストのイメージとしても究極の調和と洗練をめざして生涯ひたむきに推敲を重ねる詩人の姿が描かれたものであるが、最近ではそのような単純な見方が是正されてきている。すなわち、A版を未だ完成に至らぬ粗描とみなすのではなく、むしろそれ自身、アリオストの創造力の頂点を示すものとして独立に位置づけ、一方、C版にはイタリア戦争からルネッサンスの終焉に至る危機の時代の反映を見出してゆく方向である。本稿でとりあげる第三七歌はC版においてはじめて現れる追加エピソードのひとつであり、登場人物の名をとって"マルガノルレ"と呼ばれるものであるが、フリオーソ全体の筋の流れに直接関与する内容を持たぬことからこれまであまり注目されていない。しかし、後期アリオストの特徴的な断面が、特に女性像の形を採って現われる最初の例であり、かつ、これに素材を提供したのが同時代を代表する作品のひとつであるカスティリオーネの「宮廷人の書」であることから、興味深い要素を含むものと考える次第である。
- 1986-03-15
著者
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