Cortegianoにおける言語論争の背景
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概要
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バルデサール・カスティリオーネはCortegianoの冒頭に付したDon Miguel de Silva宛の献辞第二章を言語の問題に充て、著述にあたって母国語であるロンバルディア方言を使用したことを述べると共に、その根拠を説明している。Ma perche talor gli omini tanto si dilettano di riprendere, che riprendono ancor quello che non merita riprensione, ad alcuni che mi biasimano perch' io non ho imitato il Boccaccio, ne mi sono obligato alla consuetudine del parlar toscano d' oggidi, non restaro di dire che, ancor che 'l Boccaccio fusse di gentil ingegno, secondo quei tempi, e che in alcuna parte scrivesse con discrezione ed industria, nientedimeno assai meglio scrisse quando si lasso guidar solamete dal l'ingegno ed instino suo naturale, senz' altro studio o cura di limare i scritti suoi, che quando con diligenzia e fatica si sforzo d'esser piu culto e castigato. Cortegiano : Proemio II いかなる言語を用いて書くべきかという問題についてはとやかく言う必要がないというカスティリオーネのこの言葉はレトリックよりも文章の内容に重きを置く彼の態度を簡潔に表わしていて興味深いのであるが、一方でまた、当時いかに言語問題が論議の的となっていたかを如実に物語っている。一体、著述に使用する言語に関して、受けるであろう非難をあらかじめ予想したうえで断り書きをせねばならぬとはどういうことであろうか。カスティリオーネの時代、すなわち一六世紀初頭には、イタリア語の混乱が表面化し言語・文学史上、言語問題Questione della Linguaとして知られる議論が北伊を中心とする各地の宮廷でさかんに行なわれていたのである。イタリア語、つまり俗語を文学作品の創造、鑑賞に耐える言語にまで高めようとする運動は十三世紀前半のシチリア派に始まる。それはまた必然的に俗語を各地の方言の差異による混乱から脱却せしめひとつの共通語Koineを形成しようとする試みにもつながるものであった。俗語の問題に関する最初のまとまった著作はダンテのDe Vulgari Eloquentiaである。彼はあらゆる既存の方言を否定し、俗語の基準たるにふさわしい新たな言語をうちたてる必要を説き、これをvolgare illusttre と呼んだ。しかしこのDe Vulgari Eloquenitaはダンテの詩人としての名声にもかかわらず、十四・十五世紀を通じて、その存在さえ知られることがなかったのである。それが一躍脚光を浴びるのは一五一四年Giangiorgio Trissinoが有名なOrti Oricellariの集いの際にこのラテン語による未完の論文の内容を紹介し、かつ、それをダンテに帰せしめる旨の講演を行なった時である。Trissinoの主張は、イタリア各地の方言から優れた表現と判断される語彙、用法を採集し、それらの総合によってまったく新しい共通語をつくってゆこうというものであって、そこにはダンテのvolgare illustreの概念とは本質的に異るものが含まれていたのであるが、とにかく従来の俗語をどれも否定するという態度はダンテと共通のものであった。だからTrissinoにしてみればDe Vulgari Eloquentiaは自説を権威づけるためのまたとない大発見だったのである。しかし、彼の主張に対しては当然のことながらフィレンツェの知識人たちによる猛烈な反撃が開始される。Trissinoの説が大きな反響を呼び起こしたについては、何といってもダンテの威光に負うところ大であった。De Vulgari Eloquentiaにおいては、トスカナ語がvolgare illustreの条件たるlingua curialeを指向するものではなく逆にmunicipaleにとどまろうとしていると規定されているのみならずturpiloquiumとして悪し様に罵られているのであるから、著名な詩人、文人の輩出したトスカナの言語こそ最も栄ある俗語であると自負していたフィレンツェ人たちにとってその衝撃は大きかった。こうしてTrissinoの講演の聴衆のひとりであったマキアベリによる批判の一文Discorso o dialogo intorno alla nostra linguaが著される。彼は、ダンテの言動を祖国に対する復讐心によるもので正当な主張とは見なし難いと訴えたうえで、彼との架空問答を行ない、ダンテの最高傑作である神曲が決して詩人により提唱されたlingua curialeなどではなく紛れもないフィレンツェ語で書かれていることを結論する。Discorsoの論述はフィレンツェ語の規則正しさと構造上の優秀性を強調することに尽きており、そうする中に浮かびあがるマキアベリの言語観の著しい特色は、彼が言語を文学から切り離し、意志疎通のための道具として取り扱っている点にある。彼の下す共通語の定義も飽くまでこの線に沿ったものである。
- 1979-03-03
著者
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