ケストナー『わたしが子どもだったころ』(ゼミナール)(二〇〇二年・文教研・秋季集会(11・10/梅丘パークホール)の記録)
スポンサーリンク
概要
- 論文の詳細を見る
- 2003-07-15
著者
関連論文
- 井伏鱒二と「ジャン・エプスタンの文学論」 : 一九二九年の文学状況の中で
- 授業とテストの問題 : 国語教育・文学教育の原点を探る
- パネル・デスカッション-『かるさん屋敷』-(第27回全国集会・ゼミナールの記録『かるさん屋敷』『安土セミナリオ』)
- 特集 ケストナー「一杯の珈琲から」文学教育研究者集団編・注解
- ケストナー『消え失せた密画』(二〇〇六年文教研秋季集会ゼミナールの記録)
- ケストナー『長靴をはいた猫』(ゼミナール, 第54回文教研全国集会)
- ケストナー『わたしが子どもだったころ』(ゼミナール)(二〇〇二年・文教研・秋季集会(11・10/梅丘パークホール)の記録)
- 大江健三郎『芽むしり 仔撃ち』(ゼミナール)(第51回全国集会の記録)
- 大江健三郎『奇妙な仕事』(第50回全国集会の記録/ゼミナール(2))
- 太宰治『津軽』と"風土" (第48回全国集会の記録)
- ファービアン : あるモラリストの物語
- 文学史における井伏文学の位置 : 文学史《一九二九》の意味 (井伏鱒二『屋根の上のサワン』を読む)
- 井伏鱒二と"プロレタリア文学" : 転機としての一九二八年を中心に
- 『夜更と梅の花』の初出をめぐって : 文芸誌「人類」時代の井伏鱒二
- 井伏鱒二『祖父』と文芸同人雑誌「人類」(下)
- 井伏鱒二『祖父』と文芸同人雑誌「人類」(上)
- 井伏鱒二初期の短編『祖父』のことなど : 新版全集に収録されなかった作品
- 古典をもつ作家の系譜(『日本の芸術論』を読む)
- 学校文学教育の失地回復 : 国立市民ゼミ : 第II部熊谷孝の世界
- 文学史の基調概念としてのリアリズムとロマンティシズム(第40回文教研全国集会を振り返る)
- 書誌的・伝記的な年代史と、文学的イデオロギーの視点に立つ文学史と : 第38回全国集会 : 第二日 : 西鶴文学をどう読むか
- 《第二部》文学の対象と科学の対象 : 討論 : 文芸認識論の諸問題
- 座談会=逍遥・四迷・鴎外 : 近代認識論史の始発点(全国集会総括)
- 『人生に相渉るとは何の謂ぞ』について(北村透谷)
- 作品表現の場面規定(ゼミナール=『阿部一族』の印象の追跡(一), 第28回全国集会の記録)
- 初期の井伏作品(資料) : 『炭鉱地帯病院』までを中心に(文学史を教師の手に 井伏鱒二と太宰治-戦中から戦後へ)
- 一年の成果・一年の計画 : 二つの総会から
- 説明文体と描写文体
- 井伏文学をどう評価するか(70冬季合宿総括・4, 『山椒魚』から『丹下氏邸』へ, 文学教育の構造化)
- 3.過大評価されている『信号』(教材化の論理)
- 日中戦争下における芸術認識論の探究(二) : 上野耕三・戸坂潤・乾孝・熊谷孝の所説の検討(連載)
- 日中戦争下における芸術認識論の探究(一) : 上野耕三・戸坂潤・乾孝・熊谷孝の所説の検討
- の西鶴論 : 熊谷孝論文に即して(文教研春合宿研究会・特別報告(二〇〇六・三・二八)の記録)
- 熊谷孝・乾孝の仕事をめぐって : アジア太平洋戦争末期における抵抗精神(『文学と教育』二〇〇号記念・特別企画)
- 芸術コミュニケーション理論への探究 : 文芸認識論 : 第II部熊谷孝の世界
- 母国語奪還 : 熊谷孝氏の講演を聴いて : 言文一致再説 : 現代日本語の想像を導いた人々 : 第36回全国集会総括
- 熊谷孝著, みずち書房刊, 「太宰治『右大臣実朝』試論」 : 〈リアリズム志向のロマンチシズム〉の解明
- 近代主義の克服 : 現代史としての文学史(1) : 熊谷孝著『現代文学にみる日本人の自画像』の再検討 : 文学史を教師の手に!
- 文学的イデオロギーとは何か : 「太宰治の文学的イデオロギー」(熊谷孝)をめぐって
- 〈現代史としての文学史〉ということ : 熊谷孝氏のコメントを聞いて(春合宿総括 : 太宰治の文学 : 戦争の現実と太宰治)
- 井伏文学研究の最近の動向 : 熊谷孝氏著『井伏鱒二』以後の研究書を中心に
- 熊谷孝著『井伏鱒二』を読む
- ケストナー「一杯の珈琲から」をめぐって(下)-(原題=Der kleine Grenzverkehr)(第57回全国集会を受けて)
- 太宰 治『めくら草子』を読む会から
- 文学教師であること(福田さんを語る(1),福田隆義初代委員長を悼む)
- ケストナー「一杯の珈琲から」をめぐって(上) : 原題=Der Kleine Grenzverkehr(第57回文教研全国集会を受けて)
- アジア・太平洋戦争末期の太宰文学(文教研・私の大学 第55回全国集会の記録 未来に生きる過去(2)-太宰治と井原西鶴の喜劇精神)
- ケストナー『ファービアン』をめぐって(下)
- ケストナー『ファービアン』をめぐって(中)
- ケストナー『ファービアン』をめぐって(上)
- ケストナーの一九三八年前後(『ケストナー文学への探検地図』刊行記念)
- ケストナーと二つの戦後(ケストナーにみる戦争の現実(1) : 第52回全国集会の記録)
- 真の伝え合いとは何か : 「学習指導要領」における「伝え合う力」批判
- 戦後の近代主義との対決(第51回全国集会の記録 : 基調報告)
- 『マルセル・ライヒ=ラニツキ自伝』を読む : 「祖国としての文学・ドイツ文学」
- 戸坂潤 再読 : その大衆論をめぐって
- 日本型現代市民社会と文学(第50回全国集会の記録/基調報告)
- 「日本型現代市民社会と文学」
- 『エーミールと探偵たち』
- ケストナー文学の視点的立場
- 『点子ちゃんとアントン』
- 一九三〇〜四〇年代の文学 : ケストナー文学を中心に (第48回全国集会の記録)
- ケストナー語録と若干のコメント (ケストナー世界への誘い)
- ケストナーの世界 : 1998年秋季集会の記録
- 芭蕉の時代 (松尾芭蕉の連句を読む)
- 大人も子どもも、本来の感情を取り戻そうよ! : 文学教育の現場から、今の時代の子どもを語る
- 最近の『かるさん屋敷』論をめぐって
- 読者論の過去・現在・未来
- クールな眼と熱い心
- 『皇帝の新しい着物』の印象の追跡下
- 一九七七年前後をめぐって (佐野洋子の世界)
- 『皇帝の新しい着物』の印象の追跡(上)(第45回全国集会の記録)
- 喜劇精神と単純化と : 広島・第十九回教育基礎講座・講演記録
- 読者論ノート(完) : W・イーザー『行為としての読書』の批判的検討
- 太宰治『たづねびと』の印象の追跡(を見なおす(2))
- 『平太郎殿』(井原西鶴『世間胸算用』の印象の追跡(第44回全国集会の記録)
- 『母国語ノート』(荒川有史著)の書評をめぐって : 「母国語」とは何か
- 読者論ノート(9) : W・イーザー著『行為としての読書』の批判的検討
- 読者論ノート(8) : W・イーザー著『行為としての読書』の批判的検討
- 民族・母国語・母国語文化 : 第43回全国集会の記録
- 安良城理論をめぐって : 下 : 読者論ノート番外編
- 安良城理論をめぐって : 上 : 「読者論ノート」番外編
- 読者論ノート : 7 : W・イーザー著「行為としての読書」の批判的検討
- 読者論ノート: 6 : W・イーザー著「行為としての読書」の批判的検討
- 読者論ノート(5) : W・イーザー著『行為としての読書』の批判的検討
- 読者論ノート(4) : W・イーザー著『行為としての読書』の批判的検討
- 読者論ノート(3) : W・イーザー著『行為としての読書』の批判的検討
- 『かるさん屋敷』シリーズ(井伏鱒二)他 : 第二次大戦後 : 第40回文教研全国集会を振り返る・その2
- 読者論ノート(2) : W・イーザー著『行為としての読書』の批判的検討
- 読者論ノート(1) : W・イーザー著『行為としての読書』の批判的検討
- 体制内知識人の発想と文体(1) : 日本ロマン派(保田輿重郎『日本の橋』)の場合 : 第39回全国集会の記録
- 真の対話とは?
- 「多元的思考」による天皇制との対決 : 『漱石と天皇制』
- 『百三十里の所を拾匁の無心』について : 春合宿で話題になったこと一、二
- 鑑賞体験の変革
- 森鴎外 : 太宰の受け継いだ文学系譜・文体的発想(1)(公開研究集会の記録 : 太宰文学が問いかけるもの)
- "コノゴロ和歌ガワカツテ来マシタ" : 6・7・8章を中心に : 第35回全国集会ゼミナール『右大臣実朝』 : リアリズム志向のロマンチシズムを探る
- 文体と対話しつづける必要 : 文教研著『太宰文学手帖』の検討を終えて
- 文学教育意識の見直し
- 安部公房「赤い繭」 : 「読者の視座」に見えてくるもの(ゼミナールのまとめ,第59回全国集会の記録)