宗教的救済観についての研究 -『教行信証』を中心としてー
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概要
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今回は宗教的救済観として、親鸞の『教行信証』を中心として考察するものである。親鸞は如来の名号・念仏こそ、衆生救済の本質であると考えられている。その念仏の衆生の捉え方の本質は「信心正因、称名報恩」という名号に対する確信と私は理解していた。最近の学説にはそのことに異を唱える考えが出ている。故に、私はこの異を再考するものである親鸞は「行巻」の行を大行・称无碍光如来名と示され、また諸仏が阿弥陀仏の名号を称揚・咨嗟されたものであることを示す。また、「信巻」の信を大信と示される。このことを考えると、衆生の信心は「行から信」との流れの順序から生まれるとする一般的な「信」の考えではないような問題とも考えられる。「信巻(本)」においては「行巻」をより鮮明に開かれたものと受けとれる。第十八願文を中心に、冒頭より信心も阿弥陀仏の廻向されたものであることを示される。そこには衆生の行信全てが否定され、阿弥陀仏の清浄なる願心よりほかに浄土往生の生因がないことが明かされる。行信ともに阿弥陀仏の廻向に他ならないことを曇鸞の『浄土論註』の三不心などにより明確にされている。又、三心全てが阿弥陀仏の信楽の一心に納まる三心即一心の論を示される。三重出体においても信心の全てが名号に帰せられることをあかし、称名念仏が名号の働きによることを明かされる。このことは信心正因義を明確にされたと考える。また、四不十四非の文によって念仏が行者による行ではなく、非行非善の真の絶対性を明かされ「信巻(本)」の最後には、信楽が他力の真実信心を意味することを明らかにされている。それとともに信心が「聞名」による信の一念であることを示されるのである。それ故に、阿弥陀仏廻向の信心をいただいた者は、必ず報恩の称名念仏称名報恩が備わることが明らかにされている。
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