宗教的存在観についての研究 : 親鸞の仏身仏土観を中心として
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概要
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学術大会のタイトルが「宗教-存在の深層へ」ということであった為に宗数的存在とは如何なることで、如何なる意味を考えるものであろうか。ということについて考えていくうちに仏身仏土観に行きあたる。その仏身仏士観を考えた場合、新鸞は如何に捉えていたかに疑問を感じ、本人の捉え方について考察してみることになる。特に、仏身仏土の問題は、宗数的存在観として考えられるものであろう。仏身仏土は視覚的存在としては証明出来ないものである。しかし、生死の問題としては大切な存在の問題と考えるからである。親鸞は主著『数行信証』「真仏土観」の冒頭に、真仏とは「不可思議光如来」、真土は「無量光明土」と仏身仏土を示し、その仏身仏士が「大悲の誓願に酬報するが故に、真の報仏土と日ふ」と示し、光明無量・寿命無量の二願を示している。その後に、『願成就文』を引文され、無量寿仏の光明が最尊第一の光明であることを示し、その意味を十二光仏によって領解される。又、その働きが積極的活動的な働きの光明であることを明かされる。その後に『涅槃経』を多く引文される。そこには、衰えることのない如来である故に、それはまた智恵であることが示され、如来は涅槃・無尽・仏性・決定・阿耨多羅三貌三菩提と明かされる。さらに、涅槃は静止的な理法ではなく、どんなものにも影響されず、活動する動的な存在であることを明かしている。そのようなことを領解した親鸞は、光明の真理的存在性を『浄土論』『浄土論註』に求めたと考える。天親は「尽十方無碍光如来」の真の仏としての徳を明かされ、真仏土が「三界の道に勝過し、究意して虚空の如く、広大にして辺際なき世界」と示される。このことを受けた曇鸞は、『浄土論』を、浄土の所在を示す文と考えられ、浄土の功徳である三厳二十九種荘厳は、無為法身である一法句を依り所としていることを示される。そのことは、法そのものが自ずから活動している自然の姿であることを明かす。往相・還相二回向の働きが、根源の本質的働きであることを明かし、又、法蔵菩薩の願行が成就し、浄土が建立されていることを明かすもので、浄上の存在が空想的なものでないことを示している。又、善導の『観経四帖疏』によって、「因願酬報」としての「報」の意義を明かし、如来が因の願に酬いて成仏した「酬因の身」であることを示す。又「是報非化」によって、浄土の根源は絶対的常住の存在であることを明かす。親鸞は、仏身仏土は物理的空想的な在り方ではなく、意味的・象徴的存在として捉えられていると考える。又、浄土は過去・現在・未来の三世を超えた永遠・常住の世界で、また不可思議の真実・光明の世界であり、娑婆・穢土に光明となって永遠に働きかける存在と考えられる。
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