晩年のダンテ
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概要
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年若くしてフイレンツェ前衛派詩人グループに加わり、清新体派の詩を体得し、さらにそれを内容的に向上させ、その後己れをいっそう磨くために、一二八五年から八七年にかけてボロニーャ大学に留学し、知識を一段と深かめ、人文主義運動の指導者ともなった人物としては、ダンテの晩年はけっして芳(かんば)しかったとはいえないであろう。もちろん彼の数々の著作、『新生』、『俗語論』、『饗宴篇』、『帝政論』、『神曲』などは、今日でも不朽の名作といわれ、彼は詩聖と仰がれてはいるが、もし彼がもう少し平和な時代に生れていたならば、もっと著述活動に天才を発揮できたであろうと惜しまれる。さてダンテの晩年を決定づけたのは、その追放であるという点については、何人も反対しないであろうし、また、その追及も彼自らの落度から、そのような悲運を招いたのでなく、複雑怪奇な政情のフィレンツェを救おうとして愛国的熱情を傾け、当時のヨーロッパの最高の実力者教皇ボニファツィオ八世と衝突したためであるという点についても多くの学者の説は一致している。それ故ダンテの晩年を語るには、順序として彼の追放からはじめめねばならない。ダンテは同僚とともに、一三〇〇年六月十五日から、同年八月十五日まで、フィレンツェ都市国家の統領となったが、彼が就任して問もない一三〇〇年六月二十三日、早くも大事件がフィレンツェに勃発した。その日はフィレンツェの守護の聖者洗礼者ヨハネ(聖ジョヴァンニ・バッティスタ)の主日だったので、組合の代表たちは洗礼堂(バツテイステーロ)に蝋燭を献納するため隊をくんで市内を行進していた。すると突然政府と仲の悪い黒党の一団が現れて、行列に向って罵言ぞうごんを投げつけた。そこで組合員もそれに応酬していたが、やがて口喧嘩はとっくみ合いに変り、騒ぎはついに全フィレンツェに拡った。それは統領ダンテにとって最初の試錬だったが、幸い間もなく鎮圧することができた。だが調べてみると、この黒党の挑発行為の背後で教皇ボニファツィオ八世が糸をひいていることが分った。なぜならば、この教皇は己れの野心からフィレンツェを屈服させようと思い、それに抵抗する白党政府、とくに統領ダンテを憎んでいたから。それ故この教皇は次に示す如くその後もしばしばフィレンツェに揺ぶりをかけた。まず一三〇一年二月二日、この教皇はシチリア遠征準備中の仏王弟シャルル・ドゥ・ヴァロア援助のためフランスの全聖職者に十分の一税を融資するよう命じるかたわら、同じ目的のためフィレンツェに賦課税をかけた。しかしダンテは元老たちに説いて、この申出を審議会で否決させた。一三〇一年六月十九日教皇は教皇庁に奉仕のためにフィレンツェ兵百名を出すように命じてきた。ところがダンテは同年四月一日から九月三十日まで、そのような問題を扱う百人委員会のメンバーであったので、この申出も拒絶した。このようにフィレンツェが頑強に抵抗するのをみて、教皇は強硬手段に出て、上述のシャルル・ドゥ・ヴァロアを教皇庁支配全域の総司令官ならびにトスカナ地方の調停者に任命した。この役職は三十四年前に、シャルル・ダンジュに与えられたことがあったが、今回は調停者というのは名のみで、実情は、フィレンツェに留って、教皇の味方をする黒党を支援する機関であったのである。フィレンツェとしては、このような機関を設置して貰っては困るので、それに抗議する使節団をいくつか作って、それをローマに派遣したが、その中の一つは、ダンテが団長をつとめるものであった。しかし、シャルル・ドゥ・ヴァロアは、そのようなフィレンツェの動きを無視して、一三〇一年の万聖節すなわち十一月一日に、軍隊を率いてフィレンツェに入城した。その時シャルルは憲法擁護を誓ったが、同時にひそかに黒党員を使って政治工作をしたので、白党政府はたちまち転覆し、幹部は逃亡した。一三〇二年一月二十七日、黒党に忠勤をはげむ奉行(ポデスタ)カンテ・デイ・ガブリエリ・ダ・グッビオは、ダンテを初めとして四人の市民に、五千フィオリーノの罰金と二年間の国外追放、永久公職禁止などの刑を宣告した。その理由は、公金消費、違法の収入、教皇とシャルル・ドゥ・ヴァロアへの反抗などの行為を列挙しているが、それらすべては捏造だったのである。この刑の判決が行われた時、ダンテはローマ使節の使命をおえてフィレンツェに戻る途中でシエナに滞在中であった。ダンテは一度は自分の無実を申開きしようかと思ったが、しても無益だと思ひ、唯罰金の支払いに応じられない旨だけを返答するのにとどめた。しかしこの宣告に追打ちをかけるように、フィレンツェ当局は、ダンテと十四人のフィレンツェ市民に対して、同年三月十日さらに苛酷な刑罰を課した。それは祖国からの永久追放ともし彼らがフィレンツェ領内で捕えられるなら火刑に処すというものであった。愛するフ
- 1973-03-20
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