明治大正期の日本のダンテ研究
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概要
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十五世紀に来日した宣教師たちが、果してダンテについて何か語ったか否かは不明であるから、その名前を初めて日本に伝えたのは明治の初年にドイツに留学した森鴎外ということになる。鴎外はその頃ドイツでストレックフゥスの訳したドイツ訳のダンテ「神曲」を読んで感激し、「神曲」に使用された詩型テルツァ・リーマに関する論文を明治二十四年十月「しがらみ草紙」へ寄せた。それがきっかけとなってダンテ文学は日本で大流行した。そして「文学界」はつづけざまにダンテ紹介に奉仕した。すなわち三十三号には戸川秋骨が「文芸復興時の事を思ふ」を、三十四号には上田敏が「ダンテ・アリギエリ」を、三十五号には平田禿木が「ダンテが後年の事を記す」を書き、明治二十九年五月に出たその臨時増刊号「うらわか草」にはダンテ・ガブリエレ・ロゼッティ訳の「新生」をよんでインスピレーションを得た島崎藤村が「西花余香」を、平田禿木が「地獄の巻の一節」を、戸川秋骨が「伊太利盛時の文学」を書いた。以上の執筆者の顔ぶれからも容易に想像できるように、明治・大正期のダンテ研究家は文学者であり、大学教授ではなかったので、ダンテをイタリア文学史や文献学から研究しようとせず、ただその作品の有する南欧的ロマンティシズムに興味をもち、それを咀嚼しようと努めただけであった。だがその方法としては、当時の日本人は殆んど誰もイタリア語を読みこなすことができなかったため、ダンテ作品の原典をさけて、もっぱらその英訳によったのである。しかしそれもどちらかというダンテを専門に研究した人の仕事で、大部分の人はダンテを論じた他の作品の飜訳を通じてダンテを知ろうとしたのである。
- 1966-01-20
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