史記留侯世家の一節について(文化編)
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概要
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據《史記巻九十七・〓生(〓食其)列傅》,漢三年(公元前二〇四年)西楚霸王項羽逼至榮陽,圍攻漢王劉邦,漢王遁走,固守鞏,洛。常此劉邦生死關頭,〓生〓計説 : "願足下急復進兵,收取榮陽,據敖倉之栗,塞成皋之瞼……"。據《高祖本紀》,高祖三年漢王出榮陽入關,收兵欲復東進。此時袁生勸劉邦説:"願君王出武關,項羽必引兵南走……,令榮陽,成皋之間且得休。……則楚所備者多,力分,漢得休,……破楚必矣。"〓,袁所説,雖有些不同,但以榮陽一帯爲〓點,養精蓄鋭,伺機反攻的戦略方針則相同。由此觀之,《史記》此段記載可以認爲是歴史事實。若此論斷成立,《留侯(張良)世家》中有關此段的記載便大可懐疑。據《留侯世家》,項羽前來奪取榮陽時,〓食其爲劉邦出課日,〓若劉邦分封六國後嗣,則六國君民必皆感恩戴徳,合力擁戴劉邦。劉邦聽了此話便毫不猶豫地聽從了。〓生〓此計與《〓生列傅》完全相反。當時諸侯威信業已掃地,六國後裔亦已淪落,因此分封諸侯,牽制楚軍之難以奏效,洞若觀火,劉邦雖禍在旦夕,不得冷靜思考,也理應駁斥〓生謬論。宋王若虚《津〓南遺老集・史記辨惑》云:"張良八難,古今以爲美談,〓疑此論甚疏",並對張良論難劉邦八條,逐一提出疑問。筆者認爲,《留侯世家》中〓食其〓計一段記載並非史實,而是司馬遷爲了嘲笑劉邦昏庸無能而創作的虚構。如此解釋,王若虚之疑問方可水釋。
- 大阪外国語大学の論文
- 1993-09-30
著者
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