環境倫理学の歴史的意味 : 学問の限界と可能性について
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概要
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今日、人類の知恵が試されている。日々報告される地球の環境破壊は、今日の学術研究の無力さと有限性とを示しでいる。我々はもはや地球環境が将来へ向けて改善されるという希望を持つことが出来ないし、悪化していくことは確定的な事となりつつある。つまり、今日の学問による取り組みはすでに失敗しているし、可能性は残されていないと言わざるを得ない。地球規模の環境破壊と人類の知恵の限界はもはや確定された事実なのである。これらのことを認識するならば、環境倫理学の歴史的な意義が明らかになる。その意義とは、今日の科学的な知の探究の限界を超え、存在を問題とする知の新たなあり方を探ることなのである。自己をこのように定義する環境倫理学は、しかし、もはやこれまでの科学的な学問とは本質的に異なるものとならねばならない。このような新たな知を獲得する試みに、「理性」の真価が問われているのである。
- 2005-03-31
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