「岩窟の聖母」の図像の神学的解釈序説 : ロンドンの聖母は無原罪の宿りを表現しているのか否かをめぐって
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概要
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はじめに 本稿は、筆者がこれまで取り組んできた3点の「岩窟の聖母」(ルーヴル美術館蔵とロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵)に関する美術史の通説の見直し作業の一環をなすものであると同時に、今後の筆者の課題である、中世からトレント宗教会議に至るまでの《聖母マリアの無原罪の宿り》問題をめぐる教会内や教会間での論争史-とりわけカトリック内部での無原罪派(フランチェスコ会)と原罪派(ドメニコ会)の間での激しい論戦の経緯、及びマリア崇敬を否定するプロテスタント諸派とカトリックの論争-が、聖母像の形成とその変遷にどのような影響を与えてきたかという、より広範な歴史的、思想的、図像学的研究の一環として、レオナルドの作品、とりわけ「岩窟の聖母」と「聖アンナ」と「洗礼者聖ヨハネ」の意義を考察しようとする試みの端緒をなすものである。レオナルドがミラノでサン・フランチェスコ・グランデ教会の聖母の宿り礼拝堂の祭壇画制作を請け負った1483年という年は、原罪派と無原罪派の対立が、両派の説教師たちの扇動に煽られた広範な信徒層に亀裂と対立と騒擾を引き起こしながら、そのピークに達した時期に当たる。両派の抗争激化の伏線は、フランチェスコ会出身の教皇シクストゥス4世の登位(1471年)にあった。この熱心な無原罪派の教皇は、両派の主だった神学者たちをローマに呼び、自分の臨席する前で公開討論をさせて、無原罪派の主張の方に軍配を上げたり(1477年)、聖母の宿りの日のための2つの聖務日課書とミサを相次いで承認し(1477年の大勅書Cum praecelsaによる、教皇庁秘書長レオナルド・ノガローリ作の第1の聖務日課書とミサの承認、1480年の小勅書Libenterによる、ミラノのフランチェスコ会士ベルナルディーノ・デ・ブスティ作の第2の聖務日課書とミサの承認)、その普及を計るために、それらを用いる者に大きな免償の特典を与えた。このような教皇の矢継ぎ早の施策は、いまだ優勢を誇る原罪派にとっては不当な党派的干渉と映った。危機感を抱いたドメニコ会、とりわけ後に同会の総長を勤めることになるヴィンチェンツォ・バンデッロ(有名な文学者マッテオの叔父)は、精力的に《聖母の無原罪をめぐる議論》に参加して防戦に務めただけでなく(1474-5年頃にイモラで、1477年に前述のローマ教皇臨席のもとで、1478年にはフェラーラのエルコレ1世の宮延での論戦)、1475年には匿名で著書Libellus recollectorius auctoritatum de veritete Conceptionis B.V. Mariaeを、1481年には無原罪の宿りに批判的な260人の聖人や神学者の証言を集めたTractatus de singulari puritate et prerogativa conceptionis salvatoris nostriを出版して、無原罪派に反撃を加えた。しかし、無原罪派を異端として弾劾する彼の過激な言動は、教皇の直接的な介入を呼ぶことになる。シクストゥス4世は、バンデッロが前述の著書の中で、大勅書Cum praecelsa中の「聖母の宿り」の祝いの対象を「精神的な宿り」、すなわち、霊魂と肉体の合一後の原罪の清め=「聖化」を祝っているのだと故意に曲解したことを厳しく批判するとともに、原罪派と無原罪派の双方に対して相手を異端として非難することを固く禁じ、この禁を破ったものは破門に処すと言う大勅書Grave nimisを1482年と1483年の2度にわたって公布した。両派の感情的な対立と敵意はこのような強制的な引き離しと冷却措置を取らなければならなかったほどに激していたのである。さて、このような聖職者同士の激しい対立と信者たちの奪い合いの中で、問題のミラノでも1475年にサン・フランチェスコ・グランデ修道院のステファノ・ダ・オレッジョ師が四旬節の中で、聖母の宿り信心会の設立を呼びかけると、「遺族や高位顕官にある者を含む非常に数多くの男女が信心会に集まった」。彼らがまず取りかかったのは、無原罪の聖母に捧げられた礼拝堂の設立である。1479年には、フランチェスコ・デ・サヴァッターリとジョルジョ・デラ・キエーザに礼拝堂天井の装飾を、1480年には、彫刻家ジャコモ・デル・マイノに木製祭壇の製作を依頼、そして1483年4月25日には、レオナルド・ダ・ヴィンチ、エヴァンジェリスタ及びジョヴァンニ・アンブロージョ・デ・プレディス兄弟と契約書を交わして、完成なった祭壇の装飾(祭壇の金箔張りと彫像の彩色と祭壇画の制作)を依頼した。したがって、レオナルドが祭壇画を請け負ったのは、同じ大勅書が2度にわたって公布された間の時期、つまり両派の対立が一般信徒を巻き込んでそのピークに達した時に当たる。以上の経緯から、レオナルドが信心会のために描いたことがはっきりしている「岩窟の聖母」ロンドン・ヴァージョンには、信心会の設立目的である聖母の無原罪の宿り顕彰の意図が込められていると考えるのが当然であろう。では、この作品はいかなる点で聖母の無原罪の宿りを表現しているのであろうか。そして、もしこれが
- 1995-10-20
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