レオナルドとルイジ・プルチ : 一四七〇年代のフィレンツェ文化の一側面
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概要
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レオナルドが《サライ=悪魔》という愛称で呼び、その後フランスに移るまでの二十七年もの間常に傍に置いてかわいがった弟子、ジャン・ジャコモ・カプロッティを自分の工房に引取ったのは、一四九〇年七月二十四日のことで、その時ジャコモは十才の少年であった。所で、この一四九〇年という年は、芸術科レオナルドにとって多忙で多産な年であると同時に、彼の文学活動において大きな転機を迎えた年でもあった。彼は建築家として、ミラノのドゥオーモのTiburio(八角形の円天井)設計コンクールに参加して、その木製モデルを完成し、当時有名な建築家兼建築理論家であったフランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニとともに、パヴィアのドゥオーモの構造に関する諸問題を検討するために、パヴィアに招かれている。また舞台演出家としては、この年の一月にスフォルツォ城内で行なわれたミラノ公の結婚式に際して、同じフィレンツェ出身の宮廷詩人ベッリンチォーニの長詩《Paradiso》を奇抜な舞台装置で演出して人々を驚嘆させ、翌年一月の馬上槍試合のパレードでは、ミラノの僣主イル・モーロの腹心の武将、ガレアッツォ・サンセヴェリーノとその従者達のために《野蛮人omini salvatici》の衣装をデザインし、特にガレアッツォのためには《野蛮な扮装をほどこした馬に乗り、兜には下半身が蛇で頭部に二本の角を持つ怪物を付ける》よう演出する。更に彫刻家としては、数々の詩や散文を讃嘆の声で満たすことになる巨大な騎馬像の製作に《再び着手》する。以上のように、この年からのレオナルドの〈芸術〉活動は、それ以前の時期に較べて遙かに活発で多彩な相貌を呈するが、このことは、彼がこの頃を境にして宮廷の寵を得、派手な活躍をし始めたことを示すものではなく、むしろ非常に単純な一事実、それまでの彼の活動についての情報が極めて少ないこと、そしてこの時期を境にして彼の手稿の量が飛躍的に増加し、彼の芸術活動の一端を窺うことができるようになったことを意味している。彼の芸術活動は、それ以前も同じく活発に続けられていたと思われるが、それを照らし出してくれる文学活動が欠如していたのである。《文学に無知な人》レオナルドの文学的衝動、ないし文学的才能の自覚は、一四九〇年頃に突然生じている。《Notta ognicosa.facietie.a di d'aprile 1490》というタイトルと日付を持つCodice Atlantico 76 v.a.には、数多くの笑い話や警句や判じ絵(rebus)などが雑然と書き連ねられており、同じ年と推定されるCodice Trivulzianoには、ペトラルカを茶化した滑稽詩の断片、道徳的モットー、古代人の逸話など、様々な著書からの抜き書きと推定される短文が、ルイジ・プルチの《Vocabulista》から書き写した三〇〇近いラテン語からの派生語のリストとともに雑居している。因みにラテン語からの派生語とは、現代の外来語の場合と同様に、少し学のある言い回しをする際に使用したラテン語的語彙のことである。所で、以上の手稿をその形式の点で当時の様々な記録物のジャンルと対照してみると、その性格は、当時の文人の必帯品であった、Zibaldone(メモ帳兼引用ノート)と一致している。マッカーニが指摘しているように、Zibaldoneは《文学者が詩作の材料として利用するために、自分の趣味に従って書き写した美しい詩句や珍しい語彙のノート、……様々な作家の文章を直ちに引用するための手段》であったのである。従って、これらの手稿が〈文学者〉レオナルドの初期の文学的教養を示す引用ノートであるとすれば、その内に二つの文学的嗜好を見分けることができる。ひとつは、ラテン語なくしては踏み込めない人文主義的教養に、俗語訳された書物とラテン語的俗語によって接近しようとする努力であり、もうひとつは、彼が三十才まで過したフィレンツェの民衆文化、より正確に言うならば、寓話や笑い話、格言、謎々、警句と暗喩に満ちた諧謔詩や騎士物語など、トレチェントからクワトロチェント中期にかけて、フィレンツェの商人、公証人、職人階級が養って来た文化伝統の継承である。レオナルドが青年時代を送っていた一四七〇年代に、フィレンツェの伝統的民衆文学を代表していたのは、ルイジ・プルチであった。そして、レオナルドがプルチの傑作《モルガンテ》を所有していたことは、一四九〇年頃のCodice Trivulzianoと、そのおよそ二年後のCodice Atlanticoの有名な蔵書目録から知られる。彼がこの本をミラノに移る前から持っていたのか、それとも文学的関心に目覚めたこの時期に購入したものかについては問わないとしても、彼がこの巨人モルガンテの滑稽な冒険物語からかなりの影響を受けていることは確かである。
- 1978-03-20
著者
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