ボイアルドの騎士観
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概要
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一四世紀以来、フェララに揺がぬ権勢を確立したエステ家の宮廷を中心に開花した、ルネサンス期イタリア騎士物語詩の伝統とその系譜の端緒を築いたボイアルドが、イタリア・ルネサンス文学の研究にはもとより、英雄叙事詩のジャンル研究にも重要な対象であることは周知の通りである。華麗なるエステ家を土壤にしたボイアルドの存在が、次いでアリオストを輩出し、さらにタッソを著名にし、ついに騎士叙事詩を完成させた功績は、きわめて大きい。にも拘らず、現今、後の二者程に、彼への閑心と評価の度合が高まっていない事実は、その内容表現の素朴さと記述された言語の、荒削りなエミリア万言がその後の北イタリア社会の発展に伴う趣向に合致しなかった所以であろう。それでも、彼のOrlando innamoratoをつぶさに読めば、彼の率直な文体の中に、騎士物語詩の原点を理解することが出来るのである。ボイアルドは、終生、エステ家との閑わりの中で過ごし、しかもその生涯を通してエステ家宮廷から並々ならぬ寵愛を受けた結果の一つが、Innamortoとなって我々の眼に触れる。彼が三五歳の頃にこの作品を起筆したものの、一八年の歳月をかけても、五三歳の年の戦乱と彼の死によって、ついに計、Innamoratoも未完に終わってしまった。Innamoratoの初めの頃の大成功は、その後の一連の模倣、継続、改訂、新版などの版本が、フェララを中心に出廻ったことからも特徴づけられる。この人気は北イタリアの各都市にまで及び、一六世紀の中頃まで盛んに持て映やされたことが知られている。しかし、この未完の騎士物語詩の評判も、度重なる模倣・継続の中でも、特筆すべきアリオストのOrlando furiosoの出現とその人気によってその影を薄めてしまった。当時、文学批評の論争が盛んであったピエトロ・ベンポの時代には、創作力と修辞法の相関メリットについて、ボイアルドの創作力とポリツィアーノの修辞法とを組み合わせたアリオストのFuriosoの方がInnamoratoよりもはるかに優れたものとして受け入れられた。その後、Francesco BerniとLodovico Domenichiらが、Innamoratoの書き替え版rifacimentiを刊行したものの、cinquecento後半ではボイアルドの創作力はもはやその魅力を失い、この両者の版本のみが記憶に留まるに過ぎなかった。このrifacimentiの意図は、ボイアルド自身の荒いエミリア方言を洗練されたトスカナ方言の流暢さと置き換えて、Innamoratoの人気を再び回復しようとしたものであるが、その他数多くの類書版と共にさほど評判を受けることもなく忘れ去られてしまった。その後は、ボイアルド自身の方言のままの原作は、全く刊行されることもなく、一八三〇年にロンドンに政治亡命をしていたイタリア人Antonio Panizziが再版本として出版するまでは、全く陽の目を見ることはなかったのである。これとても、InnamoratoとFuriosoとを混ぜた抱き合わせ本で、ボイアルドの過去の華麗な名声を思い起こす人とて余りいなかった。しかしながら、批評家達の論争は今日まで絶え間なく継続されてきたし、騎士物語詩の線上では決してボイアルドの重要牲を等閑には出釆ない。従って、今回はボイアルドの作品Innamoratoに限って、この中に表象された彼の騎士観の一端を探ってみたい。
- 1982-03-20
著者
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