タッソの「リナルド」
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概要
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元来、イタリアの叙事詩の発祥は外国に由来し、特に騎士物語の伝統は、イタリアのものではなく、カロリンガ朝やアーサー王及び古典の系統などの混然としたものである。ところでイタリアでの叙事詩に関する適切な書は少ないが、強いて挙げればA.BelloniのIl poema epico e mitologico(Milano, 1908)がある。まずこのイタリアの叙事詩の背景に触れてみると、最初に推進力となって直接に到来したものは、十二世紀におけるフランスからの巡礼たちや吟遊詩人たちが、北イタリアにもたらした初期のカロリンガ朝のロマンスであり、主として真面目な英雄的・宗教的な詩であったが、それらは当時のイタリアの大衆にもてはやされ、当然のことながら、イタリアの作家たちによってフランス語、或はフランス・ヴェネツィア方言の混成した言葉で綴られ、後にはイタリア語で模作され、改作され、続作することを刺激したものである。十三世紀晩近のものと認められるイタリア語による最も初期の独創的な詩は、フランス小唄の材料やフランスの人物を採用したものであったが、カロリンガ朝の雛型のように、調子は真面目であり、素材は殆んど軍事的なものとなっている。この傾向によってフランスのロマンス物語の登場人物は、きわめて一般的に普及するところとなり、ことに皇帝の権威・圧制に立ち向う叛逆者たる騎士 Rinaldoには、当時の外国勢力の絶え間ない支配下にあったイタリア人たちが、おそらく分たちの屈服・重圧に抵抗する一種の象徴と見做すことができよう。Poggio Braccioliniの語った話によれば、或るミラノ住人がOrlandoの勇敢な最期を聞くに及んで、義憤の涙を湛えて帰宅はしたものの、食事することさえ妻の手を煩わさねばならぬほどであったということで、当時の観客聴衆にとっては、感動的な物語であったのであろう。このようにイタリアの抑圧・圧制という歴史環境が、英雄Rinaldo(別名Orlando)の出現を待ち受け、喝釆する大きな原因であったのである。しかしながら、イタリアの叙事詩は時代の経過とともに、独特な発展を遂げることになり、やがてフランスのChanson de Rolandを特色づける要素であった、愛国的、宗教的な荘重さを喪失するようになった。この思潮は部分的には、アーサー王の騎士ロマンスの影響に基づくものであって、この導入は最初はフランス語、後にはイタリア人の手によりイタリア語で書かれた、さまざまな事例が十三世紀末葉から国内に現われ始めているのである。これらの叙事ロマンスは、ことにポー河を中心とした流域の、かなり裕福な貴族たちの宮廷の間で栄え、非常な成功を博したものとなっている。このような次第で十四世紀にはブルターニュ伝説の魔法や魔術、ロマンチックな恋や個人的冒険譚といったものが、カロリンガ朝の叙事詩の素材と混合して、当時フランスにおける如く、イタリアにおいても叙事ロマンスにイタリア的な新しい性格を装わせることになったのである。
- 1968-01-20
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