戦前期における以西底曳網漁業経営の展開
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概要
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徳島県南の由岐・日和佐・椿泊の漁民達は、地先漁場での不漁を背景に、明治20年代から「出稼」型の九州出漁を開始した。一本釣に始まった九州出漁は、漁船の動力化と母船式の開発を契機に、大正初期には五島玉之浦を根拠地とする機船延縄漁業へと移行する。さらに、大正末期には労働生産性の高い2艘式の底曳網漁業へと転換し、東シナ海・黄海の漁場を開拓し、以西底曳網漁業の発展を主導した。機船延縄や底曳網が中心となると、船主層の多くは起業費を魚問屋の融資に依存し、その結果、彼らは問屋の「仕込支配」に組み込まれるに至る。しかし、共同経営形態を採用し、問屋から独立した椿泊の漁民達の活躍は、多くの阿波船主に問屋支配の実態を認識させ、問屋から独立をめざす動きを誘発する役割を果たした。ところで、阿波船では漁労長のもとに、出身漁村の地縁・血縁的紐帯を基礎に労働力編成がなされ、歩合制を採用した「阿波型」経営が行われていた。そうしたなかで、中小の地元漁業資本の糾合を企図し、また給与制の採用による近代的な労使関係の創出をはかろうとした延縄漁業の阿波漁業株式会社(1918年)が設立された。しかし、同社は底曳網への転換期に設立されたことと、給与制の運用に失敗して挫折したために、かえって「阿波型」経営をいっそう固定化させる一因ともなった。1935(昭和10)年前後から、阿波の出漁者は九州各地の根拠地に分散・定着化しはじめ、九州出漁の「出稼」型形態は大きく転換する。しかし、第2次大戦期にかけて、船主層は、徳島県出漁団を組織して、一体的・集団的な行動を展開した。それは、阿波漁業株式会社がめざした中小漁業資本の利益を維持するための組織化を、底曳網漁業段階で実現したものでもあった。
- 摂南大学の論文
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