ディベートによる学生参加型授業の試み : 「総合的学習」におけるディベートの可能性
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概要
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一般的に日本人は,公の場で自分の考えを述べることに対して消極的である.大学の授業でも学生が自由に自己表現する場面は,ほとんど皆無と言ってよい.こうした日本人の特性には,日本語や日本社会の習俗などの文化的要素が複雑に絡みあっていると考えられる.その理由はさておいて,ますます国際化する社会にあって,日本人は公私ともにより明確に自らの考えを表明する必要に迫られてきている.こうした社会的背景のなか,如何にしたらより自由に自分の考えを述べることが可能になるかという目標をもって実施しているのがディベートの授業である.本授業では,まずは自己表現のために必要な方法と技術を身につけることを目指している.十分な資料を収集することでテーマに対する理解を深め,それを的確に伝達するための表現に結びつける準備をすることによって,学生は個人的な性格とは関わりなく人前で発言するための方法をかなりの程度,獲得できるようになる.また,ディベートをしていない学生には判定者としての役割を与えることによって,議論をただ漫然と聞き流すのではなく,テーマヘの理解と議論に対する批判的な視点を深めることを促すことができる.このように,大学の授業という限られた試みの中でも,学生が自己表現のためにある程度は実践的な方法論を身につけることができることが分かった反面,こうして得られる技術的な方法論をどのように自由な自己表現へと結びつけるべきかという課題も明らかになった.この課題を克服するための方策の一つとして,初等・中等教育の「総合的学習」において繰り返しディベートを活用することが有効ではないかと考えられる.
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