高度産業社会の日常性
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概要
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資本主義的高度産業社会は,形式的な制度レベルでシステム性の強い仕組みとしての性格を強めており,人々はその中に否応なしに組み込まれ,そこで日常生活を送っていくことになる。日常生活が送られる諸個人の社会生活は,社会構造の末端で支えられており,あくまでも構造の問題として捉えられる必要がある。だがその一方で,人々は日常生活において自由に振る舞っており,日常性は多様さに満ちている。そこから,日常性は誰のものかという問題が出てくる。日常性は構造によって支配されている。だがその場合の支配は,言葉の伝統的な意味での直接的な支配であるよりも,存在そのものが操作されているといった意味での新たな支配である。人々は己の社会生活では自由に振る舞っている。その自由が構造の限界を突破できないだけである。何故そうなるかは,人間と社会間に宿命的に存在する構造的疎外の現れ方の故である。人間は制度を介して社会に結びついていく。だが,人間の悲しさは,制度に対して完全な形で自らを一体化させることができないというところにある。制度は,常に,どんな場合にも,特定の個人を越えた存在であり,そうした存在として個人の言動を規制してくる。人間と制度の間には宿命的な隔たりがあり,我々はこれを構造的疎外と呼んでいる。構造的疎外はあらゆる社会的状況に存在し,制度に対してだけでなく,制度的構造に対しても,はたまた全体社会に対しても存在する。我々が問題にしてきている社会構造のシステム化は,この意味での構造的疎外の形式的な拡がりの極致だといって良い。構造的疎外の拡がりは構造的疎外の深化の入り口を常に伴っている。つまり,資本主義的高度産業社会は構造的疎外の深化の淵にさしかかっている。構造的疎外の深化は,構造的疎外の現実を認識した場合にも,それに対して有効な手だてが打てないときに発現する。それは社会からの抑圧へと転化する。だがこの抑圧は必ずしも一方的なものとして現れているわけではない。今日では抑圧は潜在化し,寛容的なものとして我々の前にある。だがそれは,我々の存在そのものを呑み込んでしまっていることに気付くべきである。人間と社会の関わりからして,人間存在そのものが社会の構造的仕組みにすっぽりと取り込まれ,完全に押さえ込まれてしまっている状態は管理社会と呼ばれるべきである。人間は社会の支配を免れ得ないのだが,社会に対して積極的に働きかけられる道を意識的に模索していかなければならない。社会が制度的仕組みを完成させているのに対し,我々は<豊かさ>にかまけてこのための努力を怠り,いつの間にか管理社会の状況に陥ってしまった。もとよりここでいう管理社会は,これまで一般的に使われてきた支配制度の政治的権力による「上からの一元的管理」を意味しようとするものではない。我々が考えなければならないのは制度的構造が仕組みとして発揮してくる管理なのである。この新しい管理社会の様相は人々の自立を済し崩しにし,社会に依存することの強い,自己中心的でありながら,結局は仕組みの都合に従属していく人々を産み出していく。それが人間と社会の関わりにとって望ましいものでないのは述べるまでもなかろう。我々は,現代日本の産業社会を対象に,構造の動向に対する制度や人々の反応が,如何に管理社会的様相の拡がりに関わっているかを実態的に明らかにしていく必要がある。
- 慶應義塾大学の論文
- 2000-02-25