<研究論文編>「超凡入聖」ということ(I) : 朱子の部
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概要
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本稿は筆者が曩に問うた『続「超凡入聖」ということ(I)-陽明の部-』(『陽明学論叢』所収,二松学舎)なる小論と姉妹の篇を成すものである。そして,それぞれその副題が示しているように,宋・明時代の時代精神を最も集中的に表現していると考えられる中国近世の二大儒朱子・王陽明について,その聖人観念の比較を試みようとしたものである。朱子と陽明の思想を理解する場合,朱子か陽明かという,「あれか-これか」という鋭角的な形で問題を設定することは,それはそれで理由のないことではない。わけても,その思想理解に自己の実存的覚醒がかけられているような場合には,「あれも-これも」と無限抱擁することを許さぬところがある。従って,私はその重要性については否定するものではない。しかし,それと同時に,朱王の精神を人間の精神生活の深処に触れている二つの典型と捉え,両者がその深いところにおいて出会われるような場が開かれることによって,更に大きな人間精神,全的構造が成り立つと考えることができる(楠本正継先生の「朱子学の精神」と「陽明学の精神」-ともに『中国哲学研究』所収-はかかる試みといえるであろう)。かかる場が開かれることによって,それは儒教的という特定の歴史的生の中に生い立ちながら,同時にかかる特殊的限定を越えて,更には地域や時域という歴史的な制約を越えて,現代という境位において諸他の透徹した思索と呼応し得る可能性を蔵することになるのではないだろうか。互いに姉妹の篇を成す両篇は,このようにその企図のみ壮大でしかも実質の伴わぬ,そうした貧しい試みである。
著者
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