妻木頼黄と日本橋の装飾 (3) : モニュメントとしての橋
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概要
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日本橋の架替計画は、ながらく期待されていたものの、ようやく日露戦争後、世論の凱旋気運に押されて実現された。新たな橋の設計には、近代都市にふさわしい「美観」だけでなく、「凱旋記念碑」の役割も求められた。明治期の日本において、記念碑の諸類型に関しては多くの問題があった。東京市の技師たちとともにこの事業に取り組むべく招聴された建築家、妻木頼 黄のもっとも重要な課題のひとつが、既存の問題を解決しながら、モニュメントとしての橋を実現することであった。明治期、記念碑彫刻(いわゆる「銅像」) が顕著な発展を示す一方で、記念建造物の発達にはあきらかな遅れが見られた。とりわけ日本には、記念碑的な橋梁の前例はなかった。妻木は、記念碑的な彫刻を装飾として用いた新しい類型の橋の考案を試みなければならなかった。しかしまた建築と彫刻の聞にも、大きな「隙間」があった。徳川家康のような歴史的人物の彫像は記念碑に相応しいのだが建築様式に一致せず、さらには政治的論議を呼び起こしやすかった。そこで妻木は歴史的人物の彫像の利用を断念し、当時の建築に一般的な動植物モティーフを選択した。そして妻木は、装飾プログラムの決定から彫像の様式の決定にいたるまで、彫刻家たちの作業を調整し、統制した。凱旋記念碑としての役割は、凱旋式典の記憶をも呼び覚ました。また近代の東京において、さまざまな都市祝祭との関係は無視できなかった。このため妻木の構想においては、祝祭時のために一時的なイルミネーシヨンの設置が計画されていた。 モニュメントとしての橋の設計のために、妻木は既存の記念碑計画案や祝祭時の仮設建築、博覧会の建築などを参考にすることができた。実際、日本橋の細部には、これらの種類の建築や計画からの影響の証拠を見出すことができるかも知れない。たとえば燈柱の植物モティーフの装飾は杉の葉で造られた装飾用アーチや凱旋門の月桂冠モティーフの影響を受けている可能性がある。橋梁に、記念碑や仮設の祝祭装置の要素を加えることで、妻木は、同時に以下の諸機能を果たす新たな類型、すなわち東京市にふさわしい装飾であり、かつ江戸時代の記念碑であり、また明治帝国の繁栄の祝祭装置でもある橋を造り出すことに成功したのである。
- 2011-03-31
著者
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