妻木頼黄と日本橋の装飾(1):土木技師、彫刻家との協同における「建築家」の役割
スポンサーリンク
概要
- 論文の詳細を見る
日本橋は江戸時代の創架以来、日本橋地区を代表するランドマークであった。現存する明治44年(1911)竣工の日本橋もまた、東京の都市史や近代日本の土木工学史、そして建築史や美術史において注目に値する。本稿は、土木技師や彫刻家との特異な協力関係の下で進められたこの橋梁の実現について、建築家妻木頼黄(1859-1916)が果たした役割を再考察することを目的としている。日本橋以前の近代橋梁は、いずれも土木技師たちの設計になるものであった。その状況下、日本橋は、土木技師と建築家の協同の下で実現された橋梁の最初の例として認識されていた。同様の協同が他の橋梁に遡るとする反論もあるが、妻木の参画の理由やその役割の再検証により、やはり日本橋が同様の試みの初の例であることが再確認できる。一方、あまり注目されず充分に検討されてこなかったのが、妻木と渡邊長男ら彫刻家の協同である。当時の建築界の言説のなかには、彫刻と建築の関係の疎遠さや未熟への批判を見出すことができ、とりわけ建築家に積極的な関与を求める所説が見られる。日本橋の有名な獅子や麒麟といった装飾彫刻の制作に際して、装飾プログラムから、彫像やレリーフのモティーフや様式の選定、彫像の配置にいたるまで、妻木の彫刻家たちへの関与は非常に積極的でかつ詳細に及んでいる。つまり妻木は、おそらく同時代的意識に基づいて彫刻家たちとの協同も一層推し進めたのである。
- 2009-03-31
著者
関連論文
- 妻木頼黄と日本橋の装飾 (3) : モニュメントとしての橋
- 妻木頼黄と日本橋の装飾(1):土木技師、彫刻家との協同における「建築家」の役割
- 妻木頼黄と日本橋の装飾(2): 明治44年における「日本趣味」の文脈
- ベルニーニのルーヴル宮第一計画案とデコールムの概念
- 関東大震災 (1923)と日本橋の近代建築(1)
- 調度としての絵画 : 十七世紀ピッティ宮における絵画・タペストリーの展示(東部会 平成二〇年度第一回例会,例会・研究発表会要旨)