公共空間における音声表現は、なぜ「節まわし」になるのか
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概要
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戦後の日本社会で進められた効率化は、いわば「脱リアル」の過程でもあった。言葉からも「リアル」が抜け、希薄化していった。国語教育での効率化は、活字化した書き言葉を中心にすることによって進められた。しかし、論述文はさておき、より立体的な言葉の世界=「作品」の読解に当たっては、音声表現のための「適切な方法論」によって、書き言葉の中に横たわる「リアル」を、立ち上がらせてやる必要があった。にもかかわらず、活字をもとに声に出す時にとられた方法は、単なる「黙読の音声化」(黙読時の頭の中での読みを、同時に声にも出してゆくこと)に過ぎず、しかもその表現には、「節まわし」という奇妙な音楽性がつきまとっていた。「黙読の音声化」は、特異な「身体性」をつくり上げ、マイクとスピーカーを通し、粗雑な音声表現を、公共空間にタレ流すことに貢献してきた。この論文ではその因果関係をたどり問題点を抽出した上で、音声表現のための「適切な方法論」のひとつを提示する。
- 2005-12-25
著者
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