《言語映像》と《映像言語》による表現論の結節点 : 押井守論の前提として
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概要
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<ことば>="言語"の持っている<イメージ>喚起力という、"映像"性をめぐる表現ということで、《言語映像》論と措定して、言語芸術である文学作品の読みの活性化を計るために、活用していくのだが、<ことば>を<ことば>で読み解いていく限界があるので、その理論を相対化しつつ、相乗効果を発揮させる新たな視座として、"映像"が持っている"言語"的な表現を《映像言語》論として、それぞれの表現特性や両者の相関性の分析を基本にして、言語芸術と視覚芸術の関係(コラボレーション、オリジナルとコピー)において見出すことの出来る、可能性と限界を明らかにした。そして、《言語映像》と《映像言語》において論じる"映像"が、位相の異なるものであるということから、同じパラダイムで論じるための枠組みの再構築ということで、第三の"映像"として、アニメーションの画の存在に着目して、小説・実写映画・アニメーション映画をめぐる"映像"の相関性の考察に踏み込み、ジャンルを横断して三つのメディアを自由自在に使い分けている表現者として、押井守という存在に辿り着くことで、《言語映像》と《映像言語》の次の段階へ向けての前提作業を行なった。
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