2.歴史的環境の教育 一試案(その2) : 鳥羽離宮史跡
スポンサーリンク
概要
- 論文の詳細を見る
今回は鳥羽離宮について述べる。「鳥羽の作り道」は平安京造営以前からあり大山崎に通じていた。今は干拓された「巨椋池」に通じる京都市南郊の湿原地に藤原時平が「城南水閣」を造ったが,11世紀藤原季綱が白河天皇にこの地を献上し,白河院は大規模な『鳥羽離宮』を造営した。1086年五畿七道六十州に課役し「池を掘り,山を築き,蒼海に島」を作った。1108年白河法皇は自分の墓所として三重塔を建立した。白河院の孫・鳥羽院がここに田中殿御所を作り,阿弥陀堂(安楽寿院)などを造営した。阿弥陀の極楽浄土を求める宇治の平等院・鳳凰堂と同様に,他には竜頭げき首の舟で詩歌管弦を楽しんだ。1156年保元の乱(鳥羽院の子・崇徳院と後白河院の兄弟争い)や1159年平治の乱を経て,平清盛の全盛期,後白河院はここに幽閉された。1185年平家が壇ノ浦に亡び,1192年後白河院が没すると,源頼朝が征夷大将軍に任じられた。後白河院の孫・後鳥羽天皇は鳥羽離宮を修復して,ここで歌会・舞・管弦の宴・競馬などを行った。後鳥羽院は鎌倉幕府討伐計画を遂行し,北面・西面武士・僧兵に北条義時追討の勅を出した。1221年承久の乱はわずか20日間北条氏が京に攻め上り圧勝した。院側に味方した武士の所領は北条氏に没収され,後鳥羽院は隠岐島へ流罪になった。そして主人を亡くした鳥羽離宮はその後大風で破損し洪水で朽ち果てた。西行は「何となく物悲しくぞ見え渡る鳥羽田の面の秋の夕暮れ」と詠んだ。南北朝の兵火で残る堂塔も炎上して灰燼に帰した。1950年代後半,名神高速道路京都南インターチェンジの建設に先立ち,発掘調査が行われて過去の鳥羽離宮の史跡が再発見された。今は鳥羽離宮に鎮座した城南宮神社,その周辺の御陵や児童公園に築山が残り,その史跡を見ることが出来るだけである。
- 1996-03-29
著者
関連論文
- 2.歴史的な環境教育の試み その3 : 鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)前後
- 3.歴史的環境の教育 一試案 その1
- 2.歴史的環境の教育 一試案(その2) : 鳥羽離宮史跡
- 存在とその広がり--平戸オランダ商館長ナイエンロ-デと娘コルネリアの家族
- 社会科って何だろう(その15)原爆投下からNPT,CTBT,核兵器廃絶まで。社会認識のギャップ
- 1.環境基本法を読む
- 社会科って何だろう-14-社会知識とは何か?侵略戦争と戦後補償
- 京都教育大学教育学部附属高等学校の「教育実習報告」
- 社会科って何だろう-13-戦後日本の社会科の変遷
- 公害教育から環境教育へ : 失うものと得るものと
- 社会科って何だろう-12-平和憲法とPKO(国連平和協力活動)協力法
- 社会科って何だろう-11-日本国憲法の誕生とその理念
- 社会科って何だろう-10-財閥解体とは何だったのか
- 社会科って何だろう-9-戦争責任と教育
- 社会科って何だろう-8-昭和初期の思想弾圧
- 社会科って何だろう-7-昭和初期の恐慌を考える
- 社会科って何だろう-6-大正デモクラシ-の視点
- 社会科って何だろう-5-明治の残光から大正デモクラシ-と第三期国定教科書使用開始前後まで
- 社会科って何だろう-4-第2期国定歴史教科書とその時代背景の考察
- 社会科って何だろう-3-