ジャーナリスト・ダヌンツィオの「日本趣味」
スポンサーリンク
概要
- 論文の詳細を見る
1.はじめに-ダヌンツィオ、ローマの日々 1.1.1881年11月Gabriele d'Annunzioは故郷アブルッツォを後にしローマに移り住む。同年6月トスカーナのプラートで高校を卒業したばかりの弱冠18才ではあるが、、すでに第一詩集Primo vere(『早春』、1879年)を出版していた若き詩人は大学に籍は置いたものの、早速この都市を舞台に文筆活動と社交界での華やかな生活に身を投じる。統一後の首都ローマには数々の雑誌・新聞が創刊され、新しい文化的企てをもくろむ空気がみなぎっていた。このローマでダヌンツィオは《Capitan Fracassa》、1881年6月Angelo Sommarugaにより創刊されたばかりで執筆陣にMatilde SeraoやCarducciを誇った《Cronaca Bizantina》や《Fanfulla della Domenica》の週刊の新聞に(後にCanto novo『新しき歌』にまとめられる)詩だけでなく、社交界消息などの多くの記事を書きはじめる。ローマの上流社会に取材した記事に窺われるように、個人的な実生活の上でもダヌンツィオは数々のサロンや劇場にさかんに出入りしていた。その暮らしぶりは父への手紙に、落ちつかない生活の中で自分は意志を失い魂を病んでいると告白しているほどであったらしい。1883年7月には周囲の反対を押して貴族の娘Maria Hardouin di Gallesと結婚、経済的理由から一時ペスカーラに戻る。1.2.1884年に入りダヌンツィオは上述の新聞に当時の風俗・流行についての記事に加え芸術時評・書評等をさかんに書く一方、日刊紙《Fanfulla quotidiano》、《Tribuna》へも執筆するようになる。後者との仕事は1884年12月から4年後の8月まで続く。タイトルはGiornate romane、La vita ovunque、Favole mondane、Cronaca mondana、Grotteschi e rabeschiなどで、署名も遊び心をうつしてかDuca Minimo、Vere de Vere、Musidoroをはじめ20ほどある。義母の仲介でPrincipe Mario Sciarra所有のSeraoやCarducciが執筆していた一流新聞《Tribuna》のcronista mondanoとしてローマに戻ったダヌンツィオの、第1回目1884年12月1日付Giornate romaneは次のようにはじまる。"Salute a O Tsouri Sama, a Sua signoria la Gru!" タイトルはTsoung-Hoa-Lou, Ossia Cronica del Fiore dell'Oriente、署名はShun-Sui-Katsu-Kavaである。上記の書きだしに続き、新しい駐伊日本大使Fujimaro Tanakaがイタリア国王に謁見したときの様子(「二本の刀は腰になかった…上から下まで黒の洋装にすっかり身を貶しめて、疲れを知らぬ笑みを絶やさぬものの、小刻みなまばたきを繰り返し、頬骨のあたりをひくひく震わせ続けていた」)が語られる。そして「私」はBeretta夫人の店の前に来ている。「雨が降っていた…コンドッティ通りを歩いていた私は、巨大な青銅の鶴が多彩色の花瓶の並ぶなかに首を突き出している、日本風の陳列窓の前で『オツリサマ万歳』と、熱い崇拝の心を込めて唱えた。そして絹織物のぬくもりと、異国の木と茶の芳香の中へと、一休みすべく入っていった。」《Tribuna》12月1日はgiapponeserieでいっぱいである。そして1884年12月から翌夏にかけ「日本趣味」は重要なテーマの一つとなる。1.3.1882年から1888年にかけてローマでの「ジャーナリスト」ダヌンツィオは、近年まで注目されることが比較的少なかった。作者生前の全集刊行時に本人が若書きの新聞記事類を除いたのにはじまり、現在までそれを網羅する本は刊行されていない。当稿ではダヌンツィオ・ジャーナリストの創作活動において日本趣味という世紀末ヨーロッパの一文化現象がいかに受容されたかを、1)社交界消息、2)新聞短篇小説Mandarina、3)小説Il Piacereに分けて探っていきたい。
- 1992-10-20
著者
関連論文
- ジャーナリスト・ダヌンツィオの「日本趣味」
- 中世における「三つの指輪」の寓話、変容の系譜 : Novellino第73話を中心に
- 『ノヴェッリーノ』異文における文体の変遷
- 『ノヴェッリーノ』に見るDuecentoの物語 : 『ノヴェッリーノ』第51話と『デカメロン』I-9