エウジェーニオ・ザノーニ・ヴォルピチェルリ : 東洋に於けるダンテの紹介者
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概要
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十九世紀の末期から二十世紀の初期にわたって、およそ半世紀の間を中国で過したエウジェーニオ・ザノーニ・ヴォルピチェルリEugenio Zanoni Volpicelliは、元神戸駐在イタリア総領事、京都大学講師であったアルフォンソ・ガスコと共に、東洋とイタリアとの間に於ける文化の交流に多大の貢献をしたイタリア生まれのオリエンタリストの双壁と呼ぶことができる。ヴォルピチェルリは一八五六年にナポリで生まれ、一九三六年に八十年の生涯を長崎で閉じた。その墓は長崎の外人墓地にある。墓碑には彼がキリスト信者であったことを示す十字の印の下にコンメンダトーレ・ザノーニ・ヴォルピチェルリの名と誕生の年と死亡の年が刻んである。この墓石は一九四五年の八月、長崎に投下された原爆の爆風によって吹き飛ばされ、およそ十五年の間そのままの状態で放置されていたが、今から五年間、ニューヨークに住居する李叔明という中国人からヴォルピチェルリの墓についての問い合わせと墓の修理費を出すから修理をして欲しいという申し出があった時に、長崎市当局の手によって、またその出費に於いて修復された。李叔明という人はヴォルピチェルリの中国時代の親友である。ヴォルピチェルリはナポリで学業を始め、一八七五年に工業専門学校に於いて物理学と数学の修業証書を受けた。一八七八年から三年間、ナポリの中国学院に於いて中国語を学ぶための奨学金を受けた。これが彼を中国と結びつけ、またわが日本とも結びつける機縁となった。中国学院が王立アジア学院に昇格した時には、彼はアラビア語を知るためにシリアへ行った。この王立アジア学院は現在ナポリ大学の東洋学院となっている。
- イタリア学会の論文
- 1966-01-20
著者
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