日本橋八重洲1丁目街並み商業史覚書
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概要
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本稿はこれまで本誌に記してきた日本橋の町々に続いて,かなり史的に特徴をもつ現在の八重洲1丁目,以前の西河岸町・呉服町・元大工町・数寄屋町・檜物町・上槇町の6つの町-江戸時代には呉服橋御門外の西の一郭-について,その街並みを商業史の視点から取りあげるものである。江戸時代初期,特に江戸城造成の頃は,この一郭は騒然たる建築資材などの荷揚げ場であったが,この完成と大名屋敷ができあがるにつれ,ここに町屋が形成され,多くの御用達商人が屋敷を拝領するなどして移り住み,また国役の職人が集団居住するに至る。しかし,江戸市中が拡大するにつれ,これら職人は国役よりはるかに割のよい顧客を求めて,様々な町に分散してゆき,町の様相は次第に変わって,元禄の頃になると,上方文化の東漸を象徴するように,多くの工芸師の住む町となる。本稿はここにどのような工芸師たちが住んでいたかを表示し,そこに,この町の他の町とは違った史的特徴を見出す。江戸後期に,この町は市中の町々と同じような諸問屋のある町屋となるが,明治維新後,ここは,他の日本橋の町々とはまた異なった外的環境の変化に遭遇するのであった。本稿はこれを明治・大正期の街並み変貌として詳述する。まず時代の流れの中で,新政府の欧化都市計画や外濠内にあった大名屋敷の消失と,その跡地の荒廃に触れ,更に大正期に,鉄道がひかれても,東京駅の乗降口は丸の内側のみであったことから,この界隈はいわば,新しい時代の発展センターの丸の内地区とは,鉄道と外濠により二重に分断されるという重大な背景を指摘して,大正7年におけるこの町々の店の業種を表示する。そこでは「魚河岸の外郭地」としての色彩が呉服町にあったこと,大戦景気を背景として急増した芸妓屋や待合が,特に数寄屋町・檜物町・上槇町の街並みを特徴づけたことを表示すると共に,他方,これらの町に,明治の産業勃興と関係の深い諸会社が数多くみられるといったことを詳述する。そして,明治・大正期のこの界隈は,下町的様相とこうした近代的な諸会社のある町の姿とが奇妙なコントラストを持ちつつ混在するという特徴を持つことを指摘する。更にこの界隈の特徴を,土地の所有者からみ,どのような業種の地主が多かったか,またそれはどのような地主であったかを明らかにして,改めて,この界隈の大正初期の商業的価値を考え,それぞれの町の平均地価からまた人口の増加率からその特性を描き出すものである。
- 2001-06-25
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