戊戌維新期の上海亜細亜協会をめぐって
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概要
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一八九八年(明治三十一年、清国光緒二十四年、戊戌年)当初、日本における東洋振興団体としては、東邦協会、亜細亜協会(前身の名は興亜会)、同文会、東亜会、海外教育会等があった。この年十一月、東亜会と同文会が合併して、東亜同文会が設立され、一九〇〇年には亜細亜協会がこれに合流した。ところで、この戊戌維新運動のあった九八年、中国の上海においても、亜細亜協会が設立された。上海亜細亜協会の成立については同年七月発刊の『日本人』第七〇号に而して其創立に就ては吾人は福本日南の労多しとせざる可からず。…幸い此挙には我か小田切領事の賛成あり、上海道台票鉤の書力あり、遂に勅裁を仰ぎ、前者を其頭に戴きて成立するに至りぬ。とある。また巻末の『資料」にあげたように、「右列(亜細亜協会)十六条の章程は、光緒戊戌年四月朔日(五月二十日)待鶴山人(鄭観応)の起草に係る。同志の鄭孝胃、日本総領事小田切等が亜細亜協会の設立に賛成した。……日本総領事小田切を正会長に、待鶴山人を副会長に公選した。入会を認められ署名して資金を援助した人は、約百余名、すべて、官界、商界で名声のある人であった。…突如、晩夏に、北京で政変が起こり、人々は恐怖し、協会は即刻解散した、人々は多く残念がった。」とある。また、「上海的亜細亜協会成立干是年閏三月初七日、假鄭観応之寓所挙行」と四月二十七日を成立した日と特定するのもある。しかし、実際はどうであったのか。以上のことをも含め、上海亜細亜協会に係る問題を検討しようとするのが小論の目的である。
- 奈良大学史学会の論文
- 1998-12-00