ダランベールと形而上学
スポンサーリンク
概要
- 論文の詳細を見る
拙稿「エピステモローグ、ダランベール」においてわれわれは、ダランベールが、<経験>と<解析>を基準に、無駄な原理や誤った原理を削り、必要十分な原理を立てて、そこから力学とさらには学問一般を体系的に構成し直そうとしていること、それゆえ、彼を、自然科学の形而上学からの自立へ近代的体系化を果たそうとするエピステモローグだと見なしうることを示した(1)。しかしながら、その際にも触れたように、形而上学批判者でありながら、ダランベールはそれを容易に清算しえたわけではなく、一面では、終生形而上学に浸透・制約されていた。それゆえ、近代的エピステモローグである面のみを強調するようなダランベール解釈は一面的との批判を免れないであろう。 一般に、フランス啓蒙が宗教・形而上学批判を展開したことはよく知られるところであるが、同時に、神については理神論、汎神論、無神論、自然については機械論、生気論、有機体論、また、それらと関わって物心をめぐる一元論、二元論といった独自の形而上学を前世紀来の問題系を継承(プロブレマティック)して構築している。ダランベールもそうした時代の子である。それゆえ、本稿では、形而上学を前面に据えることで、それと形而上学批判の論理との十八世紀的角逐をダランベールに即して検討したい。それは、また、先の拙稿でやり残した仕事でもある。さて、本論に入る前にここで扱う形而上学とは何かについて一言しておこう。問題になるのは言うまでもなく十八世紀的な意味での形而上学である。ダランベール自身は、『哲学の基礎』(一七五八)第六章で、外界存在の問題や種々の心身問題などを例として挙げている。ディドロが『ダランベールの夢』(一七六九)で医師ボルドゥに語らせているところから引けば、形而上学とは、神の存在、物質の永遠性、物質の性質、二実体の区別、人間の本性、動物の発生、自我の統一性などを問題にする学問である。本稿では、このうち、初めの四つの問題に関わるような形でダランベールの形而上学を検討の俎上に載せていきたい。なお、批判対象としては、コンディヤックが『体系論』(一七四九)で扱った、十七世紀の形而上学= 「体系の哲学」と同義的に用いられていることも付言しておく。
論文 | ランダム
- Automated cloud tracking using aligned digital ATS pictures
- Radiative transfer in the atmosphere mars and that of venus above the cloud deck
- 分散染料の高温分散性に及ぼす界面活性剤混合の影響
- Theoretical Aspects of the Field Radiological Monitoring System for a Reactor Accident, (II) : Optimum Design Principles
- Theoretical Aspects of the Field Radiological Monitoring System for a Reactor Accident, (I) : Fundamental Descriptions