規則のパラドックスと根元的規約主義
スポンサーリンク
概要
- 論文の詳細を見る
ソールA.クリプキが論じるところによれば、ウィトゲンシュタインは、規則に従うということについての議論において規則のパラドックスを提示しているという。その規則のパラドックスとは次のようなものである。たとえ私が言語によって何かを意味しているという私に関する事実を探しても、そのような事実は存在しない。我々は盲目的に規則に従っていると言わざるをえない。したがって言語は無意味であるように思われる。他方で根元的規約主義者は、我々は言語を使うたびごとに、我々の言語の個々の適用が言語規則に従った正しい適用であると取り決めていると主張するであろう。ここで問わなければならない問題は、この根元的規約主義は規則のパラドックスの解決策であるかどうかということである。この問題に答えるためにこの論文においては二つの種類の具体的な事例、すなわち円滑に進んでいるコミュニケーションと円滑に進んでいないコミュニケーションが考察されている。円滑に進んでいるコミュニケーションにおいて我々は端的に言語を使っているのであり、「取り決め」という概念は不必要である。円滑に進んでいないコミュニケーションの事例として、言葉の理解にギャップが存在する場面においては、「取り決め」という概念はそのギャップを埋める働きをするように思われるかもしれない。しかしながら、そのコミュニケーションにおける関係者の一人が、言葉の新たに取り決められた意味を誤解しているかもしれないのである。ここで、規則のパラドックスについてのクリプキの議論に従えば、我々は、その人がその取り決めを誤解していないということを確証するその人自身に関する事実を提示することはできない。したがって根元的規約主義は規則のパラドックの解決策ではない。規則のパラドックスを導出する議論の本質は、意味の正当化主義(基礎づけ主義)を批判するという点にある。意味の正当化主義者は、我々は言語を有意味に使用しているのであるから、我々は言語の使用を根源的に正当化できなければならないと主張する。しかし、実際には言語の使用を根源的に正当化することはできない。もし意味の正当化主義に固執して、言語の使用を根源的に正当化しようとするなら、それは不可能であり、それゆえ言語は実は無意味であると結論せざるをえなくなる。規則のパラドックスは、意味の正当化主義のパラドックスなのである。根元的規約主義もまた、この意味の正当化主義の一種であろう。
著者
関連論文
- 技術者倫理における地球的視野の問題
- 規則のパラドックスと根元的規約主義
- 技術者倫理における設計思想について
- 技術者倫理と環境問題
- 心理的利己主義は論駁されたか
- 技術者倫理における内部告発の問題
- 技術者倫理において倫理学理論はどのように論じられるべきか
- 技術者倫理における道徳的ジレンマと価値概念