津和野養老館における崎門学派朱子学の役割
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概要
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津和野は、森鴎外の生地として多くの人々に知られ、現在、西日本における観光地としても有名である。鴎外の津和野在住は生誕から一八七二(明治五)年、十歳(数え年十一歳)までの十年間であった。この間、鴎外は、六歳(数え年。本論では数え年で論述)の時、藩校養老館の教官村田義実に『論語』を学び、八歳から藩校養老館で、四書五経の経書や『史記』その他の史書などを学んだ。廃藩置県で養老館が閉校になるまでの約二年間藩校の経営が続けられた。一七八六(天明六)年から一八七一(明治四)年までの八十五年間、養老館の教学は、山崎闇斎(一六一八-八二)を祖とする朱子学、すなわち崎門学派の朱子学が根幹であった。八十五年間には、時代の趨勢によって、洋学が採り容れられたり、日本神道や国学が中心になったこともある。また我が国啓蒙思想家西周(一八二九-九七)によって、これらの思想を包括して広い視野に立った近代教育への脱皮の試みがなされたこともあった。森鴎外は藩校養老館で学んだ最後の学生の一人である。彼は、死去する五年前、一九一七(大正六)年に、随筆「なかじきり」を『斯論』第一巻第五号に掲載し、「幼い時に宋明理気の説が、微かにレミニサンス(筆者注-フランス語で、無意識の記憶。)として心の根底に残ってゐて、」と述べ、さらに「同書」で、宋代理学、すなわち朱子学と西欧のエドワルト・フォン・ハルトマンの無意識哲学やショーペンハウエルの厭世哲学の影響が、鴎外の思想的生涯に大きいことを述べている。本論では、藩校設立以前の藩学の状況、藩校設立に崎門学派朱子学を導入した際の経緯、それ以降の藩学の推移などについて論述し、崎門学の果たした役割について述べる。
- 九州女子大学・九州女子短期大学の論文
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