宗教の真理は語ることができるのか : ウィトゲンシュタインとナーガールジュナの思索を手がかりとして
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概要
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宗教学・宗教哲学の分野では、これまで「宗教の真理・奥義・核心などと呼ばれるもの-以下では<宗教の真理>として一括する-は言語でかたることができるか否か」という問題が頻繁に議論されてきた。本論文では、否定神学者としてのウィトゲンシュタイン(W)とナーガールジュナ(N)の思索をとりあげ、二人がいかにこの問題と格闘したかを跡づける。「語りうるもの」と「語りえないもの」を鋭く対置させ、自分の宗教体験をその区別に絡めながら思索した前期W。世俗諦と勝義諦からなる二諦説に立ち、勝義をかたる言語の可能性を見捨てることはなかったが、そうした言語の限界をふかく認識したN。宗教の真理をかたる言語をめぐる二人の見解には、驚くほどの共通点と根源的な相違点とが見られる。本論文は、二人の相違点ではなく共通点に焦点をあわせて、議論を展開する。二人の思索からいえることは、言語によっては宗教の真理について直接に「語る」ことはできないけれども、間接にそれを「示す」ことはできる、ということである。いわば、言語は宗教の真理を「示す」という目的のための「作用能力」をもつのである。
- 2006-06-30
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