"acaryahたち"と"vyakhyatarahたち"の論争が意味するところ--初期ニヤーヤ学史の展望をめざして
スポンサーリンク
概要
- 論文の詳細を見る
Nyayamanjari (NM)に言及される「acarya(たち)」と「vyakhyatr(たち)」の論争は,文献がほとんど現存しない初期ニヤーヤの思想史解明にとって貴重な情報源であることは,Frauwallner [1936]以来よく認識されてきた.また両者の論争はVyomavatiやNyayabhusanaなどにも類似の議論が断片的に見出され,それらとNMとの共通の資料源の可能性や,該当資料相互の思想史的な先後関係などが論じられてきた(Gupta [1963], Schmithausen [1965], Wezler [1975], Slaje [1983],山上[1999]など).さらに両者の議論は,素朴実在論的な特質をもつニヤーヤ,ヴァイシェーシカの認識論が,とりわけ表象主義ないし「観念論的」な仏教認識論との論争を通じて,独自の理論の展開,変容を遂げてゆくプロセスと深い関わりがありうることも,Schmithausen [1965]が指摘している.しかしドイツ語論文が大半であったことも関係してか,それらの質的に高い研究成果や重要な問題点の指摘が,十分に研究者間に共有されているとは言い難い現状を踏まえ,本論文では先行研究の再検討と問題点の再整理を行い,中間発表として以下の点を明らかにした.(1) Wezler [1975]は注釈書Nyayamanjarigranthibhangaに依拠しつつ,"acaryah"と"vyakhyatarah"は敬意を表しての複数形で,共に個人の思想家AcaryaとVyakhyatrを指すという従来の解釈を疑問視し,文字通り複数の思想家群「acaryaたち」と「vyakhyatrたち」を指すはずだ,-と主張したが,Jayantaにとって最も敬意を表するべきAksapada仙が,いずれも単数形で呼ばれていることは,この主張を指示する有力な根拠となるだろう.(2)ただし敬意を表す複数形という解釈のもとでは,"vyakhyatarah"と主張が重なる"pravarah"は,Pravaraという一人の思想家を指し,Vyakhyatrと同一の人物が敬意の複数形になっていると判断できるが,文字通り複数の「vyakhyatrたち」を指すと考えた場合,NM中に一回だけ登場する"pravara (h) ahuh"は,"pravara (h) ahuh"に訂正しなければならない.(pravaraを普通名詞に解釈することは,pravaramataの用例から考えて困難.)(3)しかしそもそもNMというテキストを,埋もれた思想史再構築のための「情報源」として,新旧の資料断片に分解してゆく近代の研究方法自体も問題なしとはしない.いろいろな「過去の」学者たちの議論を,巧みに配置し,まるで戯曲家が論争劇のように仕立ててゆくJayantaの意図を,テキストに忠実に追跡する意味も忘れてはならないだろう.
- 2006-03-25
著者
関連論文
- "acaryahたち"と"vyakhyatarahたち"の論争が意味するところ--初期ニヤーヤ学史の展望をめざして
- ニヤーヤの綱要書Nyayakalikaの著者問題再考
- 論証式におけるupanayaの意味について : 初期ニヤーヤ学史再構成に向けての一資料(駒澤大学における第五十五回学術大会紀要(二))
- 「寛容宥和の精神」へのまなざし--中村元博士の思想と向き合うために (特集 いま中村元を読む)
- ケース・スタディ 南葵文庫国絵図のデジタル化とiPalletnexusの開発
- 第五十八回 仏教文化講演会 理屈と理屈を超えたもの--インド哲学研究の意味を求めて
- Jayanta Bhattaの著作問題追記 : sastrantaraについて
- ニヤーヤ学派における儀軌論争史の一断面 : シャシャダラによるウダヤナ説批判