瀬戸内文学と『とはずがたり』 : 付、杉本苑子『新とはずがたり』
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概要
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瀬戸内晴美氏 (法名は寂聴師)、その文学と大納言久我雅忠の女、すなわち後深草院二条、その自伝『とはすかたり』との交渉は深く、長く、篤い。宿緑に結ばれているようだ。たんに、『中世炎上』と原典との関連ではすまない。また、その現代語訳者にとどまらぬ。何んと、十年も集注して固執し、やがて卒業して行く。おりから、氏自身が次のように回顧した、その時期にあたる。昭和四十一年に「一つの心理的転機」をきたして、「流行作家的生活を清算」 (自筆『年譜』)したいとの願いにそそられ、歳末、京都に転居してみる。東京との往復、二重生活を試みているのだ。なぜかについて説明はない。以来、ひそかに「私の文学変革」、「脱皮」はすすみ、昭和四十三年度には、それが「本格的」(『わが文学の履歴』、いずれも『昭和文学全集25深沢七郎・水上勉・瀬戸内晴美・曾野綾子・有吉佐和子集』昭六三・四・一刊小学館に収載) になったという自覚を持つ。さらに延長線上には、昭和四十八年十一月十四日の得度、出離がある。自然な、ひとつの帰趨であろう。一念発起とか、翻然として悟るとかの挙ではない。いま、瀬戸内文学の昭和四十年代を眺めわたして、転換期を設定するとき、推力の枢要部に『とはすかたり』を置かなければなるまい。後深草院二条に、氏は等身大の、血脈たる自己を見出したのだ。劇的ですらある。時代性を別してふたりの資質、性行、嗜好はあまりに酷似している。ほとんど寸分の狂いなく、重ね合わせられよう。両者の遭遇は、約七百年を隔てた骨肉の呼応と称しても、過言ではあるまい。この至純な邂逅によって好伴侶を得るが、同時に自己凝視、自己啓発をもたらす。いや、かえって、それを強いられたかも知れない。多年にわたって、『とはすかたり』に固執するゆえんである。氏の心酔、長い同行と追随のうちに触発され、促進され、督励され、そして自得されたものは何か。それらが、ゆるやかな転換へといざない、おのずから転換期を形成する。内実を明らめなければならぬ。瀬戸内氏と『とはずがたり』との交渉の生きた現場に立ち会って、検証する必要がある。具体的に、。『とはすかたり』との出会い 。受容-自己凝視と発露、出家出離 。残された問題の体験的自得などによって、考察を試みたい。『とはすかたり』という作品の特質も立ち現われて来よう。
- 1991-03-20
著者
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