サルターティとブルーニにおけるペトラルカ
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概要
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バーソールド・L・ウルマンはその『コルッチョ・サルターティのヒューマニズム』において、「1374年におけるペトラルカの死から、1406年における彼自身の逝去にいたるまで、32年間に人文主義的運動の異議のない指導者であったサルターティ」について語り、ジェロルド・E・シーゲルはその『ルネサンス・ヒューマニズムにおける修辞学と哲学』において、「ペトラルカ以後の世代において、人文主義的文化の最も有名で有力な代表者は、コルッチョ・サルターティであった。フィレンツェ共和国の書記官長としてその30年間に、彼の名前はイタリア中にあまねく知られ、尊敬された」と言い、さらにエウジェニオ・ガレンはその『イタリア・ルネサンスにおける科学と市民生活』において、「ペトラルカは1374年に死んだ。1375年から1406年までサルターティが、最も開かれたイタリアの知性の指導者としてペトラルカに取って代わる」と述べた。多くの論者がこのように、サルターティをしてペトラルカの座を引き継ぐ人文主義の指導者とみなした。ところでそのサルターティは、ガレンの言うように、「ペトラルカやボッカッチョの友人となり文通をした。彼はペトラルカを文化人の比類なき模範と考え、また政治生活においても、護民官によっても君主によっても、教皇によっても皇帝によっても傾聴されうる託宣を述べる人とみなした」。ウルマンによれば、「古典的人文主義の道をとるのにコルッチョに疑いもなく最も影響した人は、ペトラルカであった」。しかし彼の周囲に集まった若き人文主義者たちは、ペトラルカに関する評価において必ずしも師のサルターティと見解をともにしなかった。シーゲルによれば、「フィレンツェの中でサルターティは、その周囲に一群のより若い人々を集めた。その群れには、15世紀の最も優れた人文主義者たちの間に伍するいく人かが含まれていた。すなわち、ピエル・パオロ・ヴェルジェリオ、ニッコロ・ニッコリ、レオナルド・ブルーニ、およびポッジョ・ブラッチョリーニがその人々である」。サルターティと彼の弟子たちとの間におけるペトラルカに関する評価の相違の問題は、レオナルド・ブルーニの『ピエル・パオロ・ヴェルジェリオに献じられた対話』Ad Petrum Paulum Histrum Dialogus(以下『対話』と略称する)の中に微妙な仕方で描かれている。微妙な仕方でと言うのは、その「対話」の第一部と第二部とでは評価がまったく対立しているからである。そしてブルーニはあたかも自分自身の見解を補うかのように、後に『ダンテとペトラルカの生涯』Le Vite di Dantee del Petrarcaという著作を書いた。ブルーニの『対話』と『ダンテとペトラルカの生涯』とをつなぐ問題の背景には、フィレンツェを代表する三人の文化人ダンテ、ペトラルカ、ボッカッチョという「三つの冠」tre coroneの評価を通じて、とりわけミラノのヴィスコンティ家の専制支配的政策への批判と、フィレンツェの共和国的政策の優位を主張する政治的なイデオロギーの問題があった。こうした市民的イデオロギーと初期ヒューマニズムの形成との関連を、ハンス・バロンはその『初期イタリア・ルネサンスの危機』等の著作において、「市民的ヒューマニズム」civic Humanismの問題として主題的に追及した。バロンによれば、この「市民的ヒューマニズム」のパイオニアは、コルッチョ・サルターティであった。ブルーニの『対話』と『ダンテとペトラルカの生涯』は、サルターティの提起した市民的ヒューマニズムの問題を、サルターティのサークルに属するブルーニや他のヒューマニストたちがどのように受けとめたかということに関するブルーニ的解答であった。それは問題の背景をなすフィレンツェ社会の変質と、それにともなうヒューマニズムの変質の問題を含んでいる。しかしそうした問題を、なぜここでペトラルカ論争に焦点をしぼりながら論じるかと言えば、第一に、すでに見たように人文主義の歴史において、サルターティがペトラルカの継承者として登場したからであり、第二に、サルターティを批判的に継承したブルーニが、ペトラルカと同じアレッツオ出身であるとともに、サルターティといささか異なった仕方でペトラルカを批判的に継承しているからであり、さらに第三に、サルターティは晩年においてブルーニの親友ポッジョ・ブラッチョリーニとペトラルカ問題で論争しており、その見解は若き日のブルーニやニッコロ・ニッコリなどのサルターティの弟子たちによって共有されたことがあり、結局ペトラルカ問題をめぐってブルーニは知的成長をとげたと、ある意味で言いうるからである。最後に、このペトラルカ論争を通じて、おおまかに言えば14世紀的人文主義と15世紀的人文主義との相違、もう少し立ち入って言えば、ペトラルカ的人文主義と、サルターティ的人文主義と、ブルーニ的人文主義との相違が、浮き彫りされてくるからでh
- 1991-10-20
著者
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