ペトラルカの『無知論』について : ヴェネツィアのアリストテレス主義者たちをめぐって
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概要
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1『無知について』作成の状況1362年夏, ペトラルカはヴェネツィアが彼に家を提供してくれるならば, 自分の蔵書をヴェネツィアに寄贈する旨, ヴェネツィア共和国に申し出た.共和国は9月4日の大会議で, この申し出を受け入れた.その結果ペトラルカはリーヴァ・デッリ・スキアヴォーニにあるパラッツォ・モリンという邸宅に住むことになった.E.H.ウィルキンスによれば, 「ペトラルカがすでに知っていたヴェネツィア人たちの中で, 彼の最も親密な友人は, ベニンテンディ・デイ・ラヴァニャーニとドナート・アルバンツァーニであった.ドナートは教師で文学者であった」.そして1365年前半ごろ, 4人のアリストテレス主義者と知り合い, 彼らは時には2人で, 時には4人一緒に, ペトラルカの家を訪れた.ところが1366年1月パヴィアからヴェネツィアへもどったペトラルカのもとに, ドナート・アルバンツァーニが会いにきて, 多分その折に上記4人のアリストテレス主義者たちが陰でペトラルカを, 人が善いが無知だとそしり, その判断がヴェネツィアに広く知れわたったと告げた。その事件が大きな原因の一つとなって, ペトラルカはヴェネツィアでの永住をあきらめたと言われている.だがピエル・ジョルジョ・リッチの言うように, 「その侮辱に対して, ペトラルカはすぐには答えなかった.彼は『無知について』に着手する前に, ほとんど1年経つにまかせた.そして1367年5月に, ポー川をさかのぼって, ヴェネツィアからパヴィアへ向かう船旅の間に書き始めた.その年の終りにその作品は出来上がり, ペトラルカ自身の手で美しく清書された.しかしながら正式の公刊はかなり遅れた.ようやく1371年1月13日になって, その作品を献呈されたドナート・デッリ・アルバンツァーニに宛てて, 彼はその小品を送った」.1906年にL.M.カペッリはVaticanus 3359(M.L.145)の写本に基づいて, ペトラルカの上記の著作を公刊した.その写本にはペトラルカ自身の手で, 1370年6月25日の日没の折にアルクワで書き終えた旨記されている.自筆原稿としては上記のヴァティカン本の他に, 1909年にピオ・ライナによって発見されたベルリンのハミルトン写本413がある.それらの自筆原稿を通じて, ペトラルカがその著作の最初の草稿を書いた時から公刊するまでの間に, 数多くの追加や訂正を行なったことが知られる.L.M.カペッリは, 彼の時代における本書の評価について, 次のように紹介している, 「この論争的な小著は, 学者たちによって様々に判断された.バルトーリにとってその著作は, 4人の若者のきわめて無邪気な冗談によって, 怒りっぽい虚栄心が傷つけられた結果にすぎない.ケールティングに関しては, 異端が宗教裁判によっておびやかされていた時代において, 密告者の行為を行なったとしてペトラルカを非難している.反対に, ドゥ・ノラックはもっと冷静にこの小品を検討し, 『自分自身と他の多くの者の無知について』が当時の文化に及ぼしたかもしれない影響の観点から, それがきわめて大きな重要性をもった作品であると言明してはばからない」.『無知について』がペトラルカの非難文の中で最も優れた著作であることは, 今や諸家の一致するところである.ピエル・ドゥ・ノラクが「ペトラルカの最後の哲学的論著」と呼ぶこの著作に関して, 我々は最近の諸研究を参照しながら, 原典に即してその意義を解明するように努めたい.いったいこの論争的著作において問題にされているのは, 古い中世哲学に対する近代的ヒューマニズムの戦いなのだろうか.あるいは不信仰なアヴェロエス主義に対するキリスト教的神秘主義の争いなのだろうか.あるいは哲学に対する修辞学の反逆なのか.または同時代の哲学内部の葛藤なのか.
- 1986-10-30
著者
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