ダヌンツィオの演劇について : La Figlia di Iorioを中心として
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概要
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ガブリエーレ・ダヌンツィオは、一八九七年のSogno d'un mattino di primaveraから、一九一四年のIl ferroに至るまで十六篇の戯曲を書いている。このうち、一八九八年のLa citta mortaから、一九〇九年のFedraまでの九篇は、すべてイタリア語で書かれ、tragediaと定義されている。この時期が、ダヌンツィオの生涯の中で、最も演劇との関わり合いの深い時期である。ここでは、まず当時のイタリア演劇界においてダヌンツィオ悲劇の果した役割について概観した後、代表作といわれるLa Figlia di Iorioを中心に、いかなる視点から、どのようにダヌンツィオ悲劇を評価すべきかを考えてみたい。まず時代背景であるが、当時のイタリアは、いわゆるジョリッティ時代から第一次大戦に至る時期にあたり、近代化と経済繁栄の中で、特にミラーノのような大都市を中心として大小ブルジョワジーが勅興し、海外進出の気運も高まって来た時代であった。演劇に関しては、一八七〇年代から八〇年代にかけてのイタリア演劇は、ヴェリズモの時代であったと言うことができよう。ヴェリズモ演劇と言えば、ヴェルガのCavalleria rusticana (一八九四)が名高いが、むしろ、前記のような世相を反映し、都市のブルジョワジーの生活を舞台とした作品が数多く書かれ、中でも、マルコ・プラーガやジュゼッペ・ジャコーザ等の作品は、完成度の高いものとされる。そして、ダヌンツィオが登場した十九世紀末のイタリア演劇は、それまでのヴェリズモの流れがほぼ頂点に達した時期であり、ダヌンツィオが退場する一九一〇年代の半ばには、それと入れかわるようにして、未来派やピランデッロが現われて来るのである。もちろん、ヴェリズモや、ダヌンツィオの作品のいくつかは、その後も繰り返し上演されるのであるが、ここで忘れてならないのは、以上要約した現象は、イタリア人作家によって書かれた新作に限ったことで、実際に劇場で日々上演される演目の中では、ゴルドーニの作品や、シェイクスピア、イプセン、デュマ等の翻訳物が、重要な位置を占めていたということである。一方 これらの演劇の演じ手、及び観客はどのような人々であったのだろうか。観客の主流は、もちろん大小の都市に住む貴族やブルジョワジーであり、これらの観客を満足させる為に、数多くの一座が、それぞれの演目を持って各地の劇場を巡業して回っていた。このような興行形態は今日でも行なわれ、イタリア演劇の特徴をなしているが、そればかりでなく、都市の常設劇団-テアトロ・スタービレとそれを率いる演出家の役割が大きな重要性を持つ戦後のイタリア演劇に比べ、二〇世紀初頭においては、まだそのような試みはようやく緒についたばかりで、ほとんど無きに等しい状態であった。従って、国家や自治体による援助も期待できず、ブルジョワ観客層にどれだけ受け入れられるかが、すなわち作品や一座の消長を意味したのである。こうした一座は、いわゆるマッタトーレを座頭とし、いくつかのレパートリーを持って各地を巡るのであるが、その中で当時の最高峰と目されていたのが、エルメーテ・ザッコーニとエレオノーラ・ドゥーゼであり、この二人が、いくつかのダヌンツィオ作品の初演者となっていることは注目に価する。殊にドゥーゼは、ダヌンツィオとの個人的な交際が広く知られているばかりでなく、ダヌンツィオが演劇の世界に足を踏み入れる直接のきっかけとなり、作品の成立にも深く関わっている。そのドゥーゼの当り役が、ジュリエットやノラや椿姫やミランドリーナであり、Cavalleria rusticana初演のサントゥッツァは彼女が演じているという事実も、当時のイタリア演劇の状況を象徴的に示していると言えるだろう。繰り返すならば、ダヌンツィオの演劇は、歴史的に見ると、十九世紀末から二〇世紀初頭の比較的短い期間に花開き、上演の基盤としては従来のものを踏襲し、ヴェリズモ演劇と、二〇世紀の新しい演劇運動との間に位置するものと言えよう。では、その内容と形式において特徴とすべきものは何であろうか。それを探る前に、ダヌンツィオの多彩な生涯の中で、いつごろから演劇に対する関心が顕在化して来るのかを見てみよう。一八八七年に、ローマのヴァッレ座で「椿姫」を演じていたドゥーゼの楽屋をダヌンツィオが訪れたという事実がある。しかし、その後二人の交際に急速な進展はなく、ダヌンツィオは、それに続く数年間に、Il piacere(一八八九)、L'innocente(一八九二)、Trionfo della morte(一八九四)と、デカダンスの色彩の濃い小説三部作を発表する。一八九四年九月、ダヌンツィオは、彼の作品のフランス語への翻訳者であったジョルジュ・エレルと会うためにヴェネツィアへ赴き、そこでドゥーゼと再会する。
- 1985-03-30