シビッラ・アレラーモの「ある女」について
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概要
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今世紀初頭のイタリアで、ある無名の若い女性が書いた小説が、驚くべきほどの評判を集めた。この小説はまもなくヨーロッパ各国語に翻訳され、評判は全ヨーロッパに広まった。この女性はシビッラ・アレラーモ、大反響を呼んだその処女作が、本稿で取り上げる「ある女」である。シビッラ・アレラーモと言っても、日本ではほとんど紹介されていない作家なので、まず略歴を記しておくことにする。本名はリーナ・ファッチョ、一八七六年ピエモンテ地方アレッサンドリアの生まれである。ヴェルチェッリ、、ミフノで幼年時代を過ごした後に、一八八八年、父が南部で工場経営にたずさわることになったことから、家族と共にチヴィタノーヴァ・マルケヘ移住する。その地で早過ぎた不幸な結婚をし、一児を出産するが、その後新聞、雑誌等に記事を書くようになり、それがきっかけで、、ミラノの「イタリア・フェミニーレ」誌の編集を務めることになる。一九〇二年、家族を捨ててローマに出て、詩人ジョヴァンニ・チェーナとの共同生活に入り、彼と共にローマ近効の農村アグロ・ロマーノに学校を開いて、農村における文盲教育に力を注ぐ。チェーナとの別離の後、ディーノ・カンパーナ、ヴィンチェンツォ・カルダレッリ、ウンベルト・ボッチョーニ、ジョヴァンニ・パピーニ、ジョヴァンニ・ボイネらと華麗な恋の遍歴を繰り広げる。戦後は共産党に入党、一九六〇年ローマにて永眠する。遺言により、彼女に関する資料はグラムシ研究所に保管されており、それらの資料をもとにして、一九七八年に評論集「女性とフェミニズム」、一九八一年には彼女の全生涯を資料によって再構成する「シビッラ・アレラーモとその時代」が出版された。アレラーモは、生涯を通じて様々な作品を発表してり、その中でも一九四七年の「セルヴァ・ダモーレ」は、翌一九四八年のヴィアレッジョ賞受賞作である。しかし本稿でとり上げる「ある女」は、イタリアにおけるフェミニズム文学の第一作といわれるものであり、その意味でも、彼女の全作品中最も重要なものである。また、この作品は近年になって再びベスト・セラー入りし、再版を重ねていることも付言しておかねばならないだろう。近代イタリア女性文学の流れの中で、「ある女」はフェ、ミニズム文学という新しい流れを切り開いた記念すべき作品なのである。「ある女」の当時及び今日における意義と問題点を、この作品が持つ二重構造の分析を通じて明らかにしていくのが本稿の目的である。
- 1984-03-15
著者
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