森の「孤独」から都市の「孤独」へ : ペトラルカのミラノ居住をめぐって
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概要
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「地上のさすらい人」と自称したペトラルカの生涯は、いわば旅から旅への遍歴であった。かれはつぎつぎに居住地を変えたが、世人を驚かせた居住地選択が二つある。一つは若き日のヴォークリューズ穏遁であり、もう一つは、それから十数年後のミラノ居住である。このミラノ居住は、当地の領主ジョヴァンニ・ヴィスコンティ大司教の懇望を受けいれたものであった。しかも、このミラノ居住は八年間もつづいた。一箇所での居住としては、アヴィニョン期(一三二六-三七)をのぞけば、いちばん長い。この事実からも、ミラノ居住がかれの生涯にもった重要性がうかがわれる。ところで、ペトラルカによる居住地選択のうちで、このミラノ居住ほど友人たちのあいだに否定的反響をよびおこしたものはなかった。そうした否定的反響の多くは、ミラノを宿敵とする共和制フィレンツェからやってくる。なかでもボッカッチョの反応は、まことに手きびしいものであった。かれはペトラルカの行為を、「暴君」への無節操な隷従、自由の放棄、重大な裏切りとして弾劾した。このような親友ボッカッチョの批判は、ペトラルカのミラノ居住をめぐる後世の評価にも、おおいに影響をあたえずにはおかなかった。だが、ペトラルカのミラノ居住は、かれ自身にとっては、どのような意味をもっていたのだろうか。また、より一般的に文化史的には、どのような意味をもっていたのだろうか。このことを明らかにするためには、まず、かれ自身の立場に即して内在的理解をこころみることが必要であろう。そうしてはじめて、かれの選択について、私たちはより客観的に、したがってまたより主体的に、判断をくだすことができるであろう。ペトラルカのミラノ定住という一つの重大な選択を、かれ自身の立場に即して考察し、かれの思想と行動に一つの光をあてること。これが本稿の目的である。
- 1980-09-15
著者
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