青年ペトラルカの古典研究 : アヴィニョン時代初期のリウィウス研究を中心に
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概要
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一三二六年春、ペトラルカは父の訃報に接して遊学地ボローニャからアヴィニョンに帰り、一三三七年秋のヴォークリューズ隠遁までの一一年間をこの町ですごす。この時期はかれのアヴィニョン時代とよばれてよかろう。かれの二二歳から三三歳にいたる時期である。この時期のペトラルカの作品で現存しているものは、二十数通のラテン語書簡をのぞけば、すべて韻文作品である。しかも、これら百篇近い韻文作品は、数篇のラテン語詩のほかはすべてイタリア語で書かれている。この事実をみても、この時期のペトラルカの「文学研究」の主力が俗語詩にそそがれていたことがわかる。しかし、このことはなにも、かれがラテン語文学なかんずくラテン古典文学の研究をなおざりにしていたことを意味するものではない。いな、まさにこのアヴィニョン時代に、かれの新しい「文学」いわゆるヒューマニズム文学は、その強固な基礎をきずきあげ、その進むべき方向を確定したとみてよい。そしてかれの俗語文学もまた、このヒューマニズム文学のうちに包摂されて、そのなかで固有の位置づけをこうむっていく。けだし、かれにあっては俗語文学そのものも従来の俗語文学とは異なる新しい文学たろうとしているのであり、しかもこの新しい文学理念こそはまさにヒューマニズムのそれにほかならないのである。そして、この新しい文学理念の形成、つまり新文学の基本的方向づけのうえで、かれの古典文学研究が決定的役割をはたしたこともまた否定できない。じっさい、かれが新しい俗語文学の創造に創作の主力をそそいだアヴィニョン時代はまた、かれが古典文学研究に英雄的努力をかたむけた時期でもあったのである。しかしこれは、とうぜんのことであった。けだしペトラルカの考えでは、まだ歴史の浅い俗語詩こそは大きな可能性にみちていて「詩人の栄光」を最もよく約束するはずであったが、しかしまた、俗語詩におけるすぐれた文学的質の獲得はただ古典文学研究をつうじてのみ可能だったのである。事実この時期においても、かれにとって散文の最高モデルはキケロであり、韻文のそれはウェルギリウスであった。かれは俗語詩においてもラテン古典詩の高さにまで達することをめざしていたのである。ちなみに、アヴィニョン時代末期にかれが自分の一写本に書きつけた「愛読書」目録には、俗語作品は一つも含まれていない。それら五〇冊ほどの「愛読書」はすべてラテン語作品であり、しかもそのほとんどが古典作家なのである。本稿では、アヴィニョン時代初期におけるペトラルカの古典研究、なかんずくリウィウス研究に焦点をあわせて、この時期にかれのヒューマニズムがいかに成長していったかを考察したい。したがってここでは、かれのヒューマニズムの文献学的側面が考察の中心におかれることになる。
- 1976-10-01
著者
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