ダンテの言語観とその背景 : 附「俗語詩論」第一巻全訳
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概要
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追放によってコムーネにおける知的・政治的活動の道を断たれたダンテは、あらたに直面した環境のなかで、知識人としてのみずからの位置づけにせまられることになる。その時点でダンテの関心が、それ以後の活動にとって不可欠な自己の立場の弁明と正当化に向けられたのは当然のことといえよう。そうした状況のなかでほとんど同時期に平行してあらわされたのが「俗語詩論」と「饗宴」であった。それは、追放を契機として過去の仕事を振り返えり、反省整理すると同時に、あらたな学問的野心にとりつかれて哲学を中心とする百科全書的にぼう大な知識を貪欲に吸収した時期にあたる。ダンテの生涯において詩的創作活動が一時退行し、理論的関心がもっぱら知的活動の中心を占めていた時期のようである。「俗語詩論」の執筆年代については、諸説あるが、一三〇五年の春以降の作ではありえないとする意見が大勢を占めている。なぜなら「俗語詩論」の第一巻一二-五に一三〇五年二月に他界したモンフェラート侯、ジョヴァンニ一世がなお存命として言及されているからである。また追放以前ではありえないことがこの作品の行間から明かに読みとれる。第一巻、六-三に追放の憂き目にあった祖国フィレンツェのことが郷愁にみちた口調でしみじみと語られているからである。しかし追放当初は、同志と語らって武力によるフィレンツェへの復帰を決行しようと画策したこともあり、文書による訴えも度々行っている。そうした不安定な状況下で、研究・執筆にとりかかる時間的・精神的余裕は、まずなかったであろうと推察される。カステル・プリチアーノにおける亡命軍の敗北(一三〇三年三月)以後、ようやくのこと比較的平穏な生活を送りはじめ、それと同時に政治活動へのふかい失望の念が決定的に詩想と学問の道をとらせることになったのだとすれば、「俗語詩論」の執筆はその時期以降のことと考えるのが穏当であろう(Marigo, 1957, p.XXIII)。のみらず「俗語詩論」でダンテの示したイタリア諸方言についての並々ならぬ知識は、多少修辞的誇張を割り引きしても、追放ののち「この言語(イタリア語)が拡がるかぎりの土地は、ほとんどくまなくまるで乞食のようにさまよい歩いた……」(Conv.I, 3-4)結果として獲得されたものであろうと推察される。ほとんど時期を同じくし、平行してかかれたとみられる「俗語詩論」と「饗宴」とは、たがいに相おぎなうところがあり、前者が詩の表現および形式について論じたものであるとすれば、後者は詩の哲学的内容を扱ったものである。俗語による文学を対象としたという点で両者は同一精神の産物といえよう。ダンテはこの両著作においてみずからの文学者としての立場を確固たるものとし、学問による名誉挽回をはかるのである。「俗語詩論」では青春時代の詩作活動の正当性を強調し、自己の文学的立場を歴史的に位置づけたのに対し、「饗宴」ではamoreのみをテーマとして来た過去の創作から哲学的内容をもつ詩の創作への展開を跡づけ、自分の到達したdottrina(学識)とrettitudine(廉直)の詩人としての新境地を示そうとする。
- 1980-09-15
著者
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