マキアヴェリの国家観とRagion di Stato
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概要
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マキアヴェリは一つの謎であるとされている。それは彼が権謀術数を説いたいわゆるマキアヴェリストであるか否か、確定出来ないところからきている。しかし本当に確定出来ない謎なのであろうか。私が以下で問題とするのは、間接的な形ではあるがこの問題に答えようとするものである。そのことを明らかにするために彼の国家観を通してRagion di statoとの関係から追求してみたい。初めにstatoという言葉で彼が何を意味しようとしたのかをみる。後述のとおり、『君主論』と『政略論』ではそのstatoの意味内容に相違がある。statoのみでなく全編の意図も異っている。同一作者の作品でありながら異った視点(支配者の立場と、支配される者の立場)から論じられているからである。マキアヴェリはこの場合どちらのstatoを道徳も宗教も法も、すべてを犯しても守らなければならないとするのか。それは以下の如く『政略論』のstatoである。『政略論』に展開された国家は共和国であり、公共善の守られる国家である。これこそRagion di Statoの行使されるべき国家である。決して『君主論』の権謀術数を説くstatoではない。この二つのstatoが無差別に混同されたところからマキアヴェリはずっと今日まで誤解されてきていると思う。
- 1978-03-20