ムッソリーニの転向と反教権主義
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概要
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ムッソリーニが革命派社会主義者としてロマーニャ地方政界で頭角を現わしはじめたころ、反教権主義はたしかに社会主義者共通の雰囲気を形成していた。しかし、これが反宗教的無神論として全員一致で共有されていたものであるかというと決してそうではなかった。例えば、一九〇八年半ばのことであるが、いわゆる《キリスト教社会主義者》の社会党入党をめぐって広く論議がたたかわされた。結局入党は否定されたものの数多くの賛成意見が論争の過程から生まれたのである。つまり、反教権主義といっても色調は様々であり、一方では、セルラーティやビッソラーティなどの合理主義ポジティヴィズムの立場に依る宗教《私事》説から断乎たる無神論、反宗教という立場もありえたのである。以上のことを念頭におくならば、ムッソリーニの宗教についての立場は、最左翼に位置していたと言えよう。一九一〇年四月一〇日ブッセッキオで開催されたフォルリ社会主義者連盟大会では、あらゆる信心行為を社会主義者に禁ずる決議案に賛成の一票を投じている。そして、ムッソリーニは、これに先立つスイス移住時代(一九〇二年七月-一九〇四年一一月)以降すでに宗教問題に強い論争家として一部に名前が知られるほどになっていた。しかし、彼の反教権主義は単なる宗教論争の中で錬成されたものであると言うよりは、革命的サンジカリズムへの共感やニーチェ思想との遊逅を通してより確たるものとなっていったという方が正しいであろう。事実、革命的サンジカリスト、アルトゥーロ・ラブリオーラの編集する《Avanguardia socialista》誌に寄稿した論文は、社会党改良派の《敬虔主義者》ぶりとその《立法マニア》を嗤いブルジョワ財産の即時接収あるいは暴力的な社会革命を唱え、明らかに革命的サンジカリストのものであった。また、一九〇八年末頃、共和党フォルリ地方機関紙《Pensiero romagnolo》に発表した評論《力の哲学》は彼のニーチェ体験を最も明瞭に示すものであった。そして、「ニーチェ思想とマルクス主義は革命的サンジカリズムのなかで混ぜあわされ、ムッソリーニはこのようなイデオロギー的折衷によって社会主義の革命的修正を試みたのである。」と言われたように、当時としては前衛的な思想傾向に依拠するその革命主義化は、疑いもなく反教権主義の調子を、合理主義的な宗教私事説から完全に離脱させあらゆる啓示宗教に対する激しい敵意に満ちた無神論に変えていった。つまり、社会主義とは非妥協的な無神論なのであり、教会を敵とせぬものはおのずとこの基本理念を裏切っているというのであった。いずれにせよ革命派社会主義者として地歩を固めた以上、ムッソリーニにとって反教権主義はこの水準において当然のイデオロギー表現なのであった。このように、ムッソリーニ(もちろん彼や革命派のみならず一般の社会主義者、共和派にいたるまで)にとって、《左翼》たることと反教権主義は表裏一体の関係にあったのであり、政治イデオロギーの調子が強まるにつれて反教権主義もその性格を激越なものに転じてゆくといったものであった。いいかえると、《左翼》という一種の政治イデオロギーの総括的表象の役割を反教権主義が担っていたと言えるのである。それゆえに、ムッソリーニの宗教観、つまりは反教権主義を追跡し、その軌跡を明らかにすることで逆に振幅の激しい彼の政治イデオロギーの所在をつきとめることができるのではないか。私はこういう仮説をもち、この観点からムッソリーニの転向という現象を分析してみようと考えるのである。
- 1977-03-20